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「 【小説・歴史/中華伝奇】dead or alive  ~活死剣譜~ 」
武侠伝奇  
dead or alive
~活死剣譜~

絵をクリックすると原寸大で表示されます。
絵:かなさん(リンク先のpixivにてイラスト展示されてます) 謝謝!

古代中国、項羽と劉邦の時代。求道の剣士は、屍魔として蘇った死美人と出会う。死美人は、覇王との愛情をうたう……。
戦乱の大陸を舞台に繰り広げられる天下統一の戦い、あるいは人と人ならぬ者の戦いと、愛情を描く武侠伝奇小説。
2008/5/10:ブログでの公開開始
2008/11/16:完結
2009/04/04:本編一部加筆修正
初めての方はこちらをご覧下さい 

以下本編

scene1 遭遇

scene2 地獄

scene3 赤鹿毛の女

scene4 争乱の都 

scene5 項王来-xiang wang lai

scene5 項王来-xiang wang lai 頁二 

scene6 遠征

scene6 遠征 頁二

scene7 江湖にくだる

scene8 死闘

scene8 死闘 頁二

scene9 覇王別姫

last scene 虞美人草

あとがき

●dead or alive ~活死剣譜~ ギャラリーコーナー

イラストを描いてくださったかなさんは、Pixivにてイラストを展示されています。是非見ていって下さい。


d o a の元ネタ metallic girl のデスメタルリメイク、
death metallic girl (短編)アップ。
現代日本で絶叫する香澄のネガティブセンスをお楽しみ下さい(?)。

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付録・武侠ネタ動画(別窓):武侠のイメージづけ、またはお暇つぶしにどうぞ。

主な登場人物紹介
(字を伏せて隠しています。ご覧になりたい方はCtrl+Aで文字を反転させてご覧下さい)

香澄(こうちょう):謎の美少女。その実は秘術によって蘇った死美人。
源龍(げんりゅう):元楚の軍人にして流浪の剣士。項羽と戦うために江湖(渡世)に下った。
貴志(きし):江湖をさすらう韓人の浪人。だがその実は張良に仕える密偵。
羅彩女(らさいにょ):盗賊の女首領。匈奴の血を引き、那二零(なじれい)という赤鹿毛の名馬を駆る。
水朝優(すいちょうゆう):元秦の軍人で、始皇帝の命で西方を旅していた。香澄の面倒を見ている。
麻離夷(まりい):はるか西方よりやって来た異邦人の女性。香澄の面倒を見ている。

etc...

この作品は、筆者赤城康彦が書き上げた小説、metallic girl の中華伝奇風リメイクです。また、この物語はフィクションです。史実と違う場面もありますので、ご注意およびご了承ください。また無断転載、引用等を固く禁じます。

 

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著者:赤城康彦
この物語はフィクションです。無断転載、引用等を固く禁じます。
ご意見ご感想があれば、
akagiyasuhiko○hotmail.com←○を@に変えて下さい。
mixi→http://mixi.jp/show_profile.pl?id=1616408
もしくはブログにコメントしていただくかでお願いします。


ありがたいことに、仲良くしてくださっているかなさんよりdead or alive ~活死剣譜~のイラストを数点頂きました! そこで、このページにて展示をさせてもらいます。
こちらのわがままなリクエストに応えてくださり、懸命に描いてもらって……。
ここに厚く(熱く)お礼申し上げます。

 
(↑表紙絵その1)
 
(↑表紙絵その2)
 
(↑香澄の試作・上のは赤城(筆者)がタイトル入れました。白黒も味わいがあっていいと思うので)
 
(↑香澄の試作・色つき)
(↓以下試作)




(↓源龍の試作)
 


 
(↑もとは、いういった小説でした)

絵:かなさん thanks!!

小説表紙に戻る



 

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遭遇・1

 紀元前の中国。
 史上初めて中国の広大な大陸を統一した秦が滅んで、楚と漢の間で激しい戦いが繰り広げられているころである。
 一人の青年があった。
 身にまとう服は黒く、長旅のせいかところどころにほころびが生じ、身なりはいささかみすぼらしくも。腰には剣を佩き(はき)、肩で風を切りながら、うっそうと木の生い茂る森の中に走る一筋の道を、ひとり黙然と歩いている。
 あたりは薄暗く、天を照らす陽光が、うっそうとした森の中ではいく筋かの木漏れ日となって、地に突き立っていた。
 時折鳥や虫の鳴き声が、どこからともなくと青年の耳に入り込んでくる。
 しかし青年は意に介さず、足早に旅路を急いでいた。
 その目は鋭く、薄暗い森の中で異様に光り輝いて。我知らずに、拳は握りしめられていた。
 と、そのとき。どこからともなく、鳥や虫たちの泣き声を掻き消す、獣の咆哮が轟いた。
 青年、源龍(げんりゅう)は足を止め、とっさに剣を抜き放って身構える。その目は鋭い眼光を放ちながら、周囲をゆっくりと用心深く見渡す。
 すると、木陰の向こうからゆっくりと、低く唸り声を立てながら、一匹の虎が姿を現した。殺気立ち、餓えた目が、
「こいつは、美味いか」
 と言わんがばかりに、じっと源龍を睨みつけて。その鋭い牙をひけらかすように、開け放たれた口から、なおも低い唸り声を発している。
(食うか、食われるか)
 口をつぐみ、じっと餓虎と対峙する。さすがに、人の身で虎と向き合うのというのは、肝の冷える思いを禁じえなかった。しかしかと言って、逃げたところで、人の足では虎の脚にはかなわない。
「俺にはやることがある」
 こんなところで、むざむざと餓虎に食われて死んでたまるか。
 ゆくぞ、とばかりに虎が跳躍の構えをして見せた。とともに、かっ、と目を見開き、源龍は勇を鼓して駆け出し。剣を振るって、その脳天に叩き落とす。
 剣光一閃。そのまま脳天を砕くかに見えた剣だが、虎もさるもの、身の危険を感じてさっと横飛びに剣をかわす。しくじった源龍は、剣が虚しく空を切るのに忌々しく舌打ちし、次の機会を狙ってまた剣を繰り出そうとする。
 させるか、とばかりに虎は地を踏みしめあらん限りの力で飛び掛り、前足の爪を振るって源龍をずたずたに引き裂こうとする。その素早い動きに後れを取ってしまい、繰り出す剣は届かずと観念し。
「うおっ!」
 大喝一声。あやうく爪が顔面にかかろうかという直前、源龍は大きく跳躍し虎を飛び越え。さらに森の木を跳躍台にして、また一段と高く跳ね上がるとともに、素早く剣を逆手に持ち替え、今度は上からその脳天に突き立てようとする。
 だがそれもかわされ、虎は横へひと飛び。剣の切っ先は落ち葉を軽く突っついた。
 着地の勢いで身をかがめ、虎と視線を合わせて、空(くう)を切る音を響かせながら剣を隙なく構える。これが人間同士なら、相手の挙動を見て、しばしの睨み合いとなるのだろう。しかし虎に剣などわかろうはずもなく、隙のあるなしなどお構いなく、本能のまま向かってゆくのは己が猛獣としての強さを驕っているからか。
 だがそれで虎を笑えようか、その巨体と爪と牙から繰り出される猛威は、人間の弄する小細工などいとも簡単にずたずたに引き裂いてしまう。
 やんぬるかな。源龍も隙のない構えなど虎には通じないと悟り、覚悟を決めて剣を唸らせ、閃かせ。駆け出そうとする。とすると、ぱっと脳裏に剣光が閃くように、思案が浮かび。 
 咄嗟に後ろへ向けて跳躍し、またも森の木を跳躍台にしてさらに高きへと飛び上がった。その足元を、虎が駆け抜けてゆく。
(今だ!)
 くるりと宙で身体を回転させながら、剣を虎の尾根に叩きつける。
 風を切る唸りとともに、手には、確かな手ごたえ。尾は、血の赤い筋を引きながら、地に落ちていった。これに驚いた虎は、突然尾が切り離されたことにひどくうろたえ、恨みを吐くように吼えまくって。まさに手負いの獣、いよいよ手のつけられないような暴れっぷりとなった。
 しかし狙い定まらず、暴れれば暴れるほど源龍につけこまれ、剣がその身を斬きたててゆく。しかしなかなか虎はしぶとい。しっちゃかめっちゃかに暴れるため、迂闊に近づけず剣先で傷をつける以上のことが、しばらくはなかなかできなかった。
「いい加減に、死ね!」
 痺れを切らせて、大喝。すると、虎はびくっとして尾根から赤い血を滴らせながら逃げ出した。
「逃がすか!」
 勝負はあった。だが源龍は許さず、森の中へと虎を追ってゆく。がそのとき、さっと人影が見えたかと思うと虎の前に立ちはだかった。
「なに?」
 いつの間にいたんだ、と驚く間もない。虎の前に立ちはだかった人影、源龍と同じ年頃の青い服の青年は、さっと剣を繰り出すや。そのまま虎の脳天に突き立てた。
 虎は腹に響くほどの断末魔の叫び声を上げると、力なく崩れ落ちて、ぴくりとも動かなかった。
 青年は動かなくなったのを見て、剣を虎の脳天から抜き、肩にかけると、にこっと源龍に笑いかけ。
「危ないところでござったな」
 と言った。が、しかし。源龍の目を見て、その笑顔がかたまった。
 殺気みなぎる鋭い眼差しをそそがれ、青年はかたまった笑顔で、
「それがし、江湖(渡世)をさすらう韓の生まれの浪人。姓は貴、名は志。貴志(きし)と申す。ここを通りがかれば、お前さんと虎のやつが一戦をまじえていたのを見かけたのだ。その助太刀に参ったものを、どうしてそのような怖い目をなさる」
 と抗議もふくめて源龍に述べたてた。
 ぎっ、と歯を食いしばる源龍。貴志をさらに睨みつけるあまり、ついに破裂でもしたかのように。
「黙れ!」
 と叫んだ。これには貴志も仰天した。助太刀をしたのに、怖い目をされて、挙句に黙れ、とは。一体どういうつもりだ、と笑顔はいつしか消え、こちらも目を据わらせて、相手を見据える。剣で肩を軽くとんとんと叩き、いつでも咄嗟の動きが出来ることをさりげなくしめしている。
「余計なことを。よくも俺の得物を横取りしやがったな」
「横取り?」
 源龍の言葉に貴志は驚くやら呆れるやら。ふん、と荒く鼻でいきまき。
「横取りとは人聞きの悪い。お前さんが虎を仕留めそこねたのを、手伝ってやったのではないか。感謝されこそすれ、横取りと言われる筋合いはない」
「ぬかせっ。この虎は俺が仕留めるはずだったんだ。それを邪魔しやがって。虎の代わりに、お前を仕留めてやる!」
「なにっ!?」
 驚く貴志に有無を言わせず、源龍は激しく斬りかかった。無論貴志も黙ってやられはしない。剣を構えて、素早い動きで剣をかわし。時には己の剣で源龍の剣を受け、流す。
 だがそればかりだと、ますます源龍はつっかかってくる。こうなってしまっては、是非もない。降りかかる火の粉は、払わねばならぬ。
「止むを得ん。死んでも恨みっこなしだぞ」
 とついに貴志からも剣を繰り出し、源龍を攻め出した。剣の切っ先が風を切り、唸りを上げる。それをかわしながらも、剣に切られた風が冷たく頬を撫でてゆき。これは、貴志も相当な使い手であると認めざるを得なかった。
 だが源龍も負けてはいない。
「でやあっ!」
 大喝一声。貴志の剣が切る剣風を見切り、一瞬の隙を突いてだっと駆け出し、己の剣を相手の腹めがけて突き出す。
 貴志の目は、一瞬きらりと青く光ったと見るや少しさがるとともに刺突を繰り出し。源龍の剣先と、かち合った。
 刹那、ぱっと火花が散り。薄暗い森の中、ふたりの姿を瞬きする間照らし出した。
 それを合図に双方さっと飛びのき。互いに得物を構えて、睨み合う。
 ともに額から汗が流れ出し、頬をつたって流れ落ちてゆく。
(やるな、こいつ)
 身を縛るように、周囲の空気が引き締まってゆくような緊張感。というとき、貴志はふと、
「そういえば、お前さんの名前を聞いてなかったな」
 と言った。
「そうだな。……ふん、墓に名でも刻んでくれるというのか」
「お望みとあらば」
「ならそうしてもらおうか。俺は楚人、源龍」
 源龍のこたえるのを聞き、貴志ははっとしたように目を見開いた。今たしかに、楚人といった。
「楚、項羽のか」
「知れたこと」
「浪人か」
「まあな」
 何を思ったか、貴志は源龍のことを妙に聞き出そうとする。名だけでなく、それまでどう生きたかまで刻んでくれるというのか。いぶかしく思い、それから、
「これ以上のことをお前に言う必要はない」
 と口をつぐんでしまった。貴志は、ああそうか、と言いたげにすまし顔で剣を構え、いつでも攻め立てられる体勢をとっている。
 源龍も相手の剣の切っ先を見据え、隙あらばいつでも飛び出せるよう虎視眈々と貴志の動静をうかがっている。
 少しはなれたところでは、なきがらとなった虎が静かに横たわり。そういえば、ふたりの殺気を恐れたか、鳥や虫の鳴き声がなくなっていた。
 耳の痛くなるほどの、静寂。空(くう)は流れ、相手の気を乗せて肌に触れる。
 双方、やわらかに吐息をつき、なおも静寂の中に身を置く。 
 孫子の兵法にいわく。静かなること林の如く。ふたりは動かざること山の如く。そしてひとたび双方の剣が交われば、迅きこと風の如し、侵掠すること火の如し。この四つをまとめて、風林火山という。
 ふたりはともに睨み合って、そのまま日が沈むかと思われたほど、動かなかった。ここでじれて迂闊に動けば、相手に隙をさらしてしまって、負ける。
 かといって、動かないままでいるなど、人間である以上、出来る事ではない。ここは我慢比べだ。
 と、相手の限界を待ち焦がれているときだった。
「うふふ」
 という、笑い声が耳に触れる。それは異様に冷たくも、耳を優しく撫でるように優しく、艶かしく、明らかに鳥の鳴き声を聞き間違えたのではなかった。と同時にふたりは戦慄し、鳥肌が立つ。
 その笑いの中には、童子めいた無邪気さに溢れ、まるで童女が遊ぶような。しかし、このうっそうとした、しかも虎が出るような森の中で、童女が遊ぶなど。いやそうでなくとも、さっきまでふたりは大喝し、死闘を繰り広げていたのだ。たまたま近づいたものなら、それに驚き慌て、わんわん泣いてよさそうなものだが。
(聞こえたか)
 と貴志は目で訴え、源龍も口をつぐんでうなづいた。ふたりして、笑い声を聞いたようだ。
 緊張のあまり、ふたりして幻聴でも聞いてしまったか、それとも物怪(もののけ)の業か。ふたりは理解に苦しみながら、それぞれ得物を構えて動かない。
 これはふたりで争っているどころではない、と。いまや注意は、その笑い声にそそがれていていた。
 すると、何かが源龍向かって飛んでくる。
 さっと剣を一閃。飛んできたものを打ち返せば、それはふたつに別れ、地に落ちた。見てみれば、さっき源龍が叩き落した虎の尾ではないか。
「なんだとっ!」
 同時にふたりは驚きの声を上げる。虎の尾がひとりでに飛ぶはずがない。と、すると。
「うふふ」
 また、笑い声がした。ふたりは笑い声の方へ顔を向け、目を見開き息を呑んだ。
 いつの間にいたのか、紫の衣をまとった少女が、ふたりをいわくありげな眼差しで見つめながら、こちらへ向かって静かに歩み寄ってきているではないか。
 少女の腰で、剣が揺れる。
 年のころは十七、八くらい。肌は蝋のように白く。艶のよい長い黒髪は首の後ろでまとめ上げられ。目は憂いを含んだように潤んで、薄暗い森の中でほのかに光り輝いていた。

遭遇・2

 その黒い瞳を見ると、なにか吸い込まれそうなめまいを覚え、ふたりはあわてて目をそらす。それは、その美しさに惹かれてか、それとも、
(妖女の業か)
 冷や汗がどっと吹き出るのを禁じえなかった。
(項王のもとで百戦錬磨した俺が、小娘などに)
 源龍は自分が信じられなかった。剣を頼みに、楚人として秦と戦ってきた「剣士」の己が、一瞬とはいえ、若い娘に魂を奪われたようになるなど。ありえないことであった。項王こと、項羽は女を近づけず、戦神の如くというに。己はまだ項羽には及ばないのか、と思うと忸怩たる気持ちに襲われ、ぎっ、と歯を食いしばる。
 貴志は、背筋に冷たいものが走るのをこらえながら、少女の出方を待っているようだ。
「ねえ」
 娘はふたりを交互に見つめ、見入りそうな笑顔で、つぶやいた。
「わたしも混ぜてよ」
 源龍の中で、プツン、と何かが切れた。
「小娘!」
 弾かれるようにだっと駆け出し、剣を閃かせ振り上げ、少女の脳天目掛けて振り下ろそうとする。貴志は「危ない!」と思いながらも、とっさのことで止める間もなかった。
 ふっ、と少女はうっすらと笑みを浮かべると、すぅ、と流れる空気に乗ったかのように源龍の剣をさらりとかわした。とともに、きらりと閃く光。源龍の左頬を撫でてゆく。
 それから少女の右手には、腰に佩いていた剣が握られ、不気味な光りを放ち。切っ先には、赤い血が剣光とともに濡れ光っている。
「……」
 源龍は左頬にかすかな痛みとべっとりとした感触を感じて、たらりと流れ落ちる血が口元まで落ちてきたのを舌で舐めた。妙にひんやりとして、確かに血の味がした。
(いつの間に)
 わからない。少女が剣をよけざまに、剣を抜いたのみならず、ついでに源龍を傷つけたというのか。いや、そうとしか考えられない。
 風に紫の衣がそよぐように、少女は右に左にゆらりゆらりと風と戯れるように揺れ、手に持った剣も一緒に揺れている。 
 血の冷たさを感じながら、源龍は気を持ち直し剣を構え直し。少女に備えた。そして、戦慄した。
 楚人として、項羽のもとで幾たびもの戦に赴き、幾たびもの死地を乗り越えてきた。そして、そこでの項羽の鬼神の如き戦いを目に、心に焼き付けてきた。
(さればこそ、俺は楚軍をはなれて江湖に下った)
 項羽と戦うために。
 剣士として、項羽ほどの好敵手はいないであろう。しかし楚人として楚軍にいる限り、項羽とは闘えない。だから、楚軍を離れ、江湖に下り、武者修行の旅をしていた。
 それが、こんな小娘相手に。剣をかわされたばかりか、傷までつけられて。これは、源龍にとって屈辱的なことであった。
「源龍!」
 貴志の叫び。
「ここはひとまず、手を組み協力して娘に当たるしかないぞ。どうだ」
 それを聞き源龍は顔をしかめた。娘一人に大の男がふたりで、本来なら恥ずべきことだが、その強さは計り知れず、体面にこだわっている場合ではない。それくらいはわかった。
 やむを得ず、
「応」
 とこたえるより他はなく。ふたりは、息つく間も与えまいと、少女に攻めかかった。
 ふたりの剣が交差しあい、閃きあうも。少女は笑みをたたえ、風に揺られるかのようにゆったりと、攻めをかわしてゆく。無論ふたりの攻めは迅速をきわめ、ゆっくりできるはずなどないのだが、不思議にも少女は、そよ風に遊ぶ蝶のように余裕しゃくしゃくと、その身を風にまかせるかのようにゆらぎ。 
 その手に握られる剣をかかげ、それを扇子に見立て舞いを舞っているようでもあった。
(なんで当たらんのだ)
 貴志はあせりを覚えつつも、剣を大きく振りかぶって、横なぎに斬りかかり。その反対側からは、源龍の剣がこれまた同じく横なぎに少女に斬りかかり、挟み撃ちをなす。しかし少女は意に介さないどころか、いまだ余裕ありげに笑みをたたたまま、跳躍すれば。
 その足元で、剣と剣が交差する。
 あっ、と源龍と貴志は得物を咄嗟にひっこめ、今度は跳躍した少女を下方から突き上げようする。だが少女は、貴志の剣の切っ先を跳躍台にして、ふわりとさらに高きへと飛んだ。
 衣の袖や裾が、ゆらりとゆれ、少女がほんとうに風に乗って遊んでいるかのように見え。まるで、天女のようだった。
 それを見上げた貴志は、思わず見惚れ、動きが止まる。
「おい!」
 その様子を見て取った源龍が、貴志に大喝する。
 はっとすれば、やけに得物を振るう手ごたえがおかしい。あっ、と思ってももう遅かった。先端がなく、剣は途中でまっすぐに折れている。
 剣は少女の踏み台にされたときに、蹴り折られてしまったようだ。その剣の先端は、宙でくるくる回って、切っ先を地に刺して落ちた。
 少女はさらに木を蹴って、ふたりから距離をとったところで着地。袖をたなびかせ、くるりとひるがえってから、剣を構えて。
 ふたりに笑いかけるや、さっとふたりへ向かって駆け出し、剣光を閃かせる。
(ええい、このなまくらめ)
 貴志は苦々しく切っ先の折れた剣を放り投げ、拳法の構えをとった。武器は剣以外に持っていない。源龍は目をいからせ剣を構え、地を踏みしめだっと少女に向かって駆けた。貴志もそれに続く。
 あいも変わらず少女は微笑をたたえ、剣を一閃、また一閃させる。薄暗い森の中、香澄の振るう一条の剣閃はふたりの男を翻弄し、たまに衣が木漏れ日に当たって、艶やかに光った。
 剣を失った貴志は、双拳を繰り出し、地を踏みしめ蹴りを見舞う。その動きもまずくない。剣同様、拳、脚ともに風を切り唸ること、その威力剣にも勝るとも劣らず。
(ほう)
 と源龍は少女へ剣を繰り出しながら、密かに貴志の無手の戦いに感心していた。どこの門派が知らぬが、相当に武術の修練を積んでいること明らかで、その武芸も浪人離れしていることも明らかだ。もとよりただの浪人ならば、源龍の敵ではない。
 にもかかわらず、少女へは、相変わらずかすりもしない。
 それでいて、少女はふたりにとどめをさそうとしない。
「なぶっているのか」
 思わず源龍はそう口走った。今までやりあって、その気になれば少女はふたりをしとめようと思えば、しとめられたかもしれない。にもかかわらず、それをしない。
 それを聞いた少女は、さっと後ろへ下がるや。
「なぶっているのか、って何?」
 と不思議そうな顔をして言った。
 まさか、とふたりは一瞬顔を見合わせた。言葉の意味がわからないのか。そんなはずはあるまい。清楚な顔立ちに、衣の着こなし。身分卑しからぬことは明らかだ。ということは、それなりに教養もありそうなものだが。
 からかっているのだろうか。しかし、少女はほんとうにわからない、と不思議そうにしている。
(あっ)
 生い立ちなどどうでもいい、今こそ絶好の機会。ふたりは同時に攻め立てた。少女も機先を制せられ、はっとしたものの時すでに遅し、源龍の剣が、貴志の拳が迫り。貴志の拳は頭を下げてどうにかかわすも、源龍の剣は避け切れず、咄嗟に後ろへ飛びのいたものの、衣の袖には一筋の切れ目が入っていた。
 だが少女は無表情。衣を切られても、そ知らぬ顔だ。それどころか、源龍に微笑みかける。
(なんだ、こいつは)
 少女のおかしさに、戦慄を通り越し、不気味さを覚える源龍。少しばかりお返しが出来たことなど、何ほどのことがあろうというのか、という感じだ。それと同時に、どこか、人間とは違う何かを感じていた。かといって、さっき渡り合った虎と同じことはない、なんというか、人でもない、獣でもない。ならば、やはり妖女なのだろうか。
 無手での構えで控えていた貴志も、うすうすと感じているようだ。
「お前、名前はなんという」
 と問いただす源龍。戦いよりも、少女の素性が気になって仕方がない。
 すると、
「人に名乗らせる前に、まず自分から名乗れば?」
 と返されたではないか。なぶるの意味がわからず不思議そうにしていたのに、そういう礼儀作法は知っている。
(からかっているのか? いやしかし……)
 忌々しく舌打ちしながら、
「俺は楚人、源龍」
 と名乗った。貴志はこのやりとりを奇妙に思いつつも、源龍に続き、
「韓人、貴志」
 と名乗った。そうすれば、
「私は、香澄(こうちょう)。生まれは、わからない……」
 と少女、香澄は名乗った。
 生まれは、わからないという。それから、あろうことか、香澄は途端に剣をぽとりと落としたかと思うと。頭を抱えて苦悶しはじめたではないか。

遭遇・3

(な、なんだどうした?)
 あまりの展開にふたりはなす術を知らず、呆気に取られるしかなかった。すると、ぴぃひょろろ、とどこからともなく、笛の音がこだまする。それを聞いた香澄ははっとして、笛の音のする方角へとさっと駆けてゆく。
 逃がすか、と源龍と貴志は追おうとするが、突然覆面をした謎の集団がふたりの前に立ちはだかり、ゆく手をさえぎる。
「邪魔だ!」
 と大喝するや、源龍はかたっぱしから覆面の者たちを叩き斬ってゆき。貴志も拳、脚を振るい覆面の者どもを薙ぎ倒してゆく。訳もなかった。覆面の者どもは、いともたやすくふたりに倒されてゆき、あっというまに全滅させられた。
 この呆気なさに、またふたりは不思議な思いに駆られた。
「あ、しまった」
 貴志は香澄の消えた方へと走ったが、案の定、香澄の姿はもうなかった。この覆面の者どもは、香澄を逃がすための時間稼ぎだったのだ。が、しかし、何故この覆面どもは、香澄のために死ななければならなかったのか。
 あたりは久しぶりのように、静かになって。虎のなきがらはやはり静かに眠っている。源龍は香澄の落とした剣を拾い上げ、じっと見つめる。
「……」
 剣に付着する己の血を目にし、さらに口をかたくむすび。
(これは)
 源龍は息を呑んだ。剣には衣と同じ紫色の珠が埋め込まれており、その紫色の珠は、北斗七星の配列をなしていた。剣自体もよく出来たもので、不気味に光る刃身に思わず寒気を覚えるほどだ。
「七星剣」
 ぽそっとつぶやいた。知る人ぞ知る名剣だ。なぜ彼女がそれを持っていたのかは、わからないが。それを取り落としてそのままでいるわけもなかろうし、おそらく取り返しに来るかもしれない。そのときを狙い、返り討ちにするために、源龍は剣をしばらく持つことにして、腰帯に差した。
 貴志は物言わぬしかばねとなった覆面どものそばにしゃがみこみ、覆面を引き剥がした。すると、目を見開き、
「うわっ」
 と驚きの声をあげ、「ううむ、これは」とうめいた。
(かばねなぞ、見慣れているだろうが)
 と源龍は貴志のうめく様を内心けなしながら、そのそばまでゆけば、
「……」
 口をつぐんで、押し黙った。
 しかばねはすでに変色して、腐敗もはじまって。どう見ても今さっき死んだものとは思えなかった。まさか、と思い他の覆面もはがしたが、まさかというかやはりというか、他のも、同じように変色して腐敗がはじまっていた。
「なんだこれは」
「俺が知るものかよ」
 ふたりはかばねを眺め、唖然としてしまった。
 これらは、どう考えればよいのだろう。姿を現したときに、すでにそうなっていた。となれば、すでに死んでいるはずだ。それがどうして、ふたりの前に立ちはだかったのか。
 呆然と眺めるしかばねに時間を吸い取られてゆくような錯覚にも陥りそうで、じっと時はすぎてゆくかに思われたそのとき。
 くわっ、とかばねの目が見開かれた。
「うそだろうっ!」
 突然の驚きのあまりふたりはさっと後ろへ飛びのけば、しかばねは次から次へと目を見開き、ゆっくりと起き上がってゆく。ばかりか、ふたりをねめつけ、ゆっくりと近づいてくる。それを目にしながら、信じられない思いだった、が今確かに、しかばねは動き出し、ふたりに近づいてきているのだ。
「屍魔……」
 貴志は、ぽそっとつぶやいた。
「なに、屍魔だと」
 源龍が貴志の言葉を聞いて、ふん、と鼻を鳴らす。屍魔とは、何らかの術によって、生き返った死人のことである。妖術秘術のたぐいで、死人が生き返る。そういう話は耳にした事はある。しかし、耳にした程度で実際に見たことはなかった。だからそれは、まやかしであると思っていた。なのに今、確かに屍魔とおぼしきものが、目の前にある。おまけにふたりに危害を加えようとして。
「また来るぞ」
 源龍、貴志は不気味な思いにとらわれながらも、屍魔の迫り来るにおとなしくしているわけにもいかず、勇を鼓して立ち向かった。その屍魔の動きは鈍く、攻めれば攻めたで歯ごたえはなく、いとも簡単に打ち倒されてゆく。しかしまた動き出すかもしれないと思うと、異様におっくうな思いにもとらわれ打つ手がなさそうだった。
「このぉ!」
 源龍はやけになって、一体の屍魔の頭を剣で叩き斬って落とした。すると、ぴくりとも動かない。それにはっとし、 
「頭を狙え!」
 と貴志に叫んだ。
「心得たり!」
 貴志も応えて叫び、拳、脚で屍魔の頭をどつきつぶしてゆけば、確かにぴくりとも動かなくなって、元の屍に戻った。これを見るに、まったく弱点がないわけではないらしい。あるいは屍魔をつくった妖術秘術の使い手が、そういう風にこしらえたのか。
 こうなればもう怖いものなしで、またたくまに屍魔は屍にかえってゆき。すべてを片付けられた。だがふたりは、地に伏すしかばねの群れを見下ろし、肩で息をし、なお呆然とした気が抜けきらないようだった。
 思えば、香澄が笛の音を聞き逃げ出して、それの時間稼ぎにふたりの前に立ちはだかった。ということは、香澄とこれらの屍魔はなんらかの関係があると見てもいいだろう。しかしなにゆえ、香澄は見知らぬ男ふたりと突然闘ったのか。どこから現れたのか、どこで武術を身につけたのか。すべてが謎だらけで、頭が混乱しそうだった。
 疲れてはいるが、ここから早く離れたい一心で源龍は忌々しく地に唾を吐き捨て、剣の血を服でぬぐって鞘におさめ、肩で風を切って歩き出す。貴志はそれを見て、待てよとばかりについてゆく。
「どこへゆく」
「お前に言う必要はない」
 ついて来ながら行き先を尋ねる貴志を、源龍は無視して、歩みを速め置いてゆこうとする。だが貴志は構わずついて来ながら、
「そうだな、俺は劉邦様のもとへ行こうと思う。お前はどうだ」
 と言った。途端に源龍の歩む速度がゆるみ、耳がぴくっと動いたようだ。それを見逃さなかった貴志はさらに、
「劉邦様は仁徳厚いお方と聞く、きっとわれらふたりの浪人の身も受け入れてくれるだろう」
 誘うような貴志の物言い。源龍はしかし、無言で歩くのみ。
「劉邦様のもとで手柄を立てれば、一城の主も夢ではあるまい」
 最後にそう言うと、黙って肩を並べて歩く。なんだこいつは、と源龍はちょっと横目で隣を睨む。そういえば、貴志も貴志で、突然現れて虎を横取りしてくれたのだ。たまたま通りかかってのこと、と言うが、どこまで信用できるのか。このご時世、人ほど当てにならないものはない。虚虚実実、力でのねじ伏せあいに、騙し合いにすかし合い。
 秦滅後の楚漢の戦乱端を発し、世は再び修羅の巷と化そうとしている。
 そんな時に、どこの誰とも知れぬ馬の骨と旅を共にするほど、源龍は酔狂な男ではない。が、しかし、ため息をつき、観念したように。
「俺も、劉邦のもとへゆくのだ」
 と言った。

遭遇・4

 源龍が劉邦のもとへゆく、ということをを聞いて、貴志は「ほう」とつぶやく。なんだ同じことを考えていたのか、という風に。行く先は同じ。なら同じ道を行かざるを得ない。となれば、追い払っても詮無いことではあった。
 ともあれ、楚人が劉邦のもとへゆくということは。
(おそらく項羽の扱いが悪かったのだろう)
 と想像をめぐらせた。項羽と劉邦。かつては同じ楚軍に属して秦を倒していたものが、いまは天下を二分して戦おうとしている。
 倒秦の志を遂げた後、その蛮勇の本性を現し、祖国楚の皇帝を殺して下克上をかまし、自らを覇王と称し天下に覇を唱えんとする項羽。
 劉邦は項羽による楚帝殺害を聞いて、それを機に打倒項羽の旗を打ち立てた。
 劉邦に仕える武将韓信は彼を「匹夫の勇、婦人の仁」と評している。匹夫の勇とは、勇のみを頼みにする野蛮な武将である、という意味で。婦人の仁とは、実践のともなわない口先だけの優しさやえこひいきをすることを指している。事実項羽は蛮勇の一方で、口先だけの優しさやえこひいきをする性癖があり、それに反発して離れるものも少なくないという。韓信はかつて楚軍に身を置いていたのだが、そんな理由で項羽のもとを離れ、劉邦についたのだった。
 だが、源龍はそんな理由で楚軍を離れるのではないのだが、無言のままなので貴志にはわからない。
 それよりも。
「香澄という娘。あれは、何者だ」
 ぽそっとつぶやく声。貴志もそれを聞き、顔を曇らせ、思案する。源龍が香澄の剣を腰帯に差しているのを見て、それをどうするのか、すぐにわかった。再戦を望んでいるのだろう。香澄も剣を取り戻しに来るかもしれない。が、あれから逃げた。で、どうやって源龍と剣の居所を探し当てようというのか。
 周囲に何かの気配がないか探ったが、何も感じられなかった。後をつけて来ているものはいないのか。
 いや、世の中は広い。自分以上の使い手などいくらでもいる。ひょっとしたら自分たちに察せられないように、巧く気配を殺しているのかもしれない。
(江湖を渡り歩くのだ。いつも、誰かに見張られ、狙われている、という心構えでいなければ)
 と、自分に言い聞かす。
 しかし香澄のことを思い出すだに、今さらながら身震いする思いだ。また戦うとなると、果たしてどうなることか。ぞっとしないでもない。
 どこへゆく、という話をしたのも、どこかで香澄のことを思い出さず気を紛らわす、というのがあったのかもしれない。それに、その剣をくれ、と言いたかったのだが、どうにもその気になれず黙ってしまっていたのは秘密だ。
 源龍は香澄のことが、脳裏に強烈に刻み込まれているようだ。見れば、左の頬には香澄に傷つけられた斬り傷が、深く生々しく、赤茶けた血が乾いてこびりついているままだ。
 おそらく、傷は跡に残ってしまうだろう。まだ痛むのか、時折眉をひそませたりしている。
 だが、その正体はわからず、次にいつ会えるのかもわからず。そんな香澄のために思案に暮れるわけにはいかず、黙々と歩き。
 やがて森を抜け、まわりがぱっと明るくなって、開けた景色が広がって。それからもしばらく歩き、日が暮れようとし始めたころ、
「ああ、そういえば」
 突然、源龍ははっとしたように、
「あの虎、腹が減ったときのために肉片を何切れか切り取っておくんだった。俺としたことが、迂闊だった。よほど香澄に慌てていたんだなあ」
 と、ため息をつき、おっくうそうにつぶやいた。
 そんなこんなで歩を進めていると、夕陽が沈むころになって、やがてはさびれた小さな村にたどりついた。どこか泊まれるような宿はないか、と貴志はあたりを見回すが、源龍はかまわず村を通り抜けようとする。
「おい、宿はどうする」
 と貴志が聞く。陽はだいぶ沈み、西日照らす山々は夕もやにつつまれようとしていた。が源龍はまだ陽は高いとばかりに歩き続けていたが、ちぇ、と舌打ちし。
「金がないわい」
 と吐き捨てた。なるほど、源龍は腰に剣を佩き、肩で風切る大丈夫ではあるが、服は長旅で汚れ、ぼろで、いかにも金など持っていそうにない。
 あったとしても、安宿賃すらけちってしまいたくなるほどの額だろう。
(ああ、これは悪いことを聞いてしまったな)
 と自らに苦笑してから、何かはっとするとまた、
「その剣で、いかようにも稼げるんじゃないか」
 と聞いた。暗に、強盗働きして稼げるんじゃないか、ということを聞いたが。源龍ほどの腕前なら、簡単なことだろう。だが、
「俺は剣士だからな」
 とにわかに鋭い目を貴志に向けて、つぶやいた。そこで貴志も納得をし、またにわかに源龍を見直し、肩を並べて一緒に歩く。
(これは良い拾い物だぞ)
 と内心無表情を装って、ほくそ笑んでいる。
(少年のころより張良様の密偵としてお仕えしていたが、こやつを味方に引き入れればたいした手柄になるし、また張良様の恩に報いられるというものだ) 
 貴志は、密偵として張良に仕えていて、江湖をさすらう浪人というのは真っ赤な嘘だった。世の中の動静をさぐり情報を仕入れ、張良に報告する。少年のころより、そうして生きてきた。今まで何度か危ない目にも遭い、仲間も何人か死んだが、幸いにも今日まで生きてこられた。
 そしてその今日、源龍と成り行きでだが知り合い、それを漢軍に投入させられれば……。源龍もそのつもりのようだし、自分がその案内をつとめれば、張良に、漢におおいに貢献出来るというものだ。
(あ、そうそう。屍魔のこともお知らせせねばなるまい。楚になんらかの秘術妖術を使うものがいて、それによって、漢を害そうなどと企んでおるのかもしれん)
 迷信深い時代である。この世は神々が創り給うたもので、幽霊や妖怪、はたまた神仙のたぐいが実在すると信じられていた。秦の始皇帝は、不老不死を神仙より与えてもらえると本気で信じ、様々な方法で神仙を呼び寄せようとしていたし。
 それが叶わぬとなると、わざわざ、あるかどうか疑わしい伝説上の東夷の小島(日本列島のこと)まで、徐福という者を遣って不老不死の妙薬を得ようとしたくらいだ。しかし徐福は帰ってこなかったので、妙薬はおろか東夷の小島などなく、哀れ徐福以下つき従った者たちは海の藻屑と消えてしまったのだろう。
 ともあれ、貴志は屍魔のことを思い浮かべ、急いで張良に知らせねばという焦りに駆られた。源龍に剣をくれ、と言いたかったのも、それを張良に見せたかったためだ。しかし、それを持って果たして無事に張良にまみえることができるか、どうか。
 しかし、源龍はどうする。もし、これほどの手練れが突然の心変わりを起こして楚につけば、強敵となること火を見るより明らかである。
(己を剣士と言い張るほどの男だ、嘘は言うまい)
 と自分に言い聞かせ、にわかに村人をひとり捕まえると。
「すまんが馬を一頭所望したい」
 と言った。源龍はいぶかしげな顔をする。
「突然どうしたんだ」
「あいや、急の用を思い出してな。悪いがこれでお別れだ」
 その言葉を聞き、源龍は内心ほっとしていた。一人を好む性格か、どうも誰かと一緒に行動するというのが苦手なたちだった。これで、風通しが良くなったような開放感を覚え、
「ああそうか、じゃあな」
 村人に馬をくれとせがんでいる貴志を一瞥し、ひとり先へ先へと歩いてゆく。
 それからいくらかすると、望み通り馬をもらった貴志が、馬を鞭打ち疾駆して、源龍を追い越してゆく。振り向きもしない、よほど急なことなのだろう。
 馬の揚げた砂埃に眉をしかめ、それをよけながら歩き、ふと、七星剣に手をやった。果たして、香澄と再び出会うことは、あるのかどうか。
 源龍は日月の下、とつとつと歩き旅を続けながら、時折剣の感触を確かめて、東へ向かう漢軍を追っていた。

scene1 遭遇 了 
scene2 地獄 に続く

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地獄・1

 源龍と貴志が出会い、香澄と遭遇してから幾日か過ぎたときのこと。
 華山という山がある。
 秦の都であった咸陽(かんよう)の少し東。大陸を流れる黄河が、一番南にくだる流域に程近く。中国の五岳(恒山・泰山・嵩山・衡山・華山)に数えられる名峰である。
 名峰ではあるが、その雄大さもさることながら、五岳はおろか天下第一の険とまで言われるほど、その山は険しく、地元の人間でもめったに登ることはなかった。
 そんな華山を、何人かの男女が昇っている。周囲はひどく深い霧につつまれ、昼時にもかかわらずまわりは白け、まるでどこか幽玄の世界へと足を踏み入れてしまったようだった。
 それでいて、断崖絶壁は言うに及ばず、よじ登るような華山の道なき道を、彼ら彼女らは額に汗しながら突き進んで、昇っていた。
 それぞれ、剣や刀を腰に佩いている。武者修行なのだろうか、それとも華山を根拠地として、華山派とかなんとか、新手の新興門派でも興すのか。と、人が見れば思うかもしれない。が、無論、見る人などない。
「ここらへんだ」
 先頭の男が言った。華山もだいぶ登ったが、いま皆がいることろは比較的平坦で広い場所だ。先頭の男は、あたりをきょろきょろ見回して、何かを探しているらしい。
「智之(チシ)、今度こそほんとにここらへんなんでしょうね」
 女がひとり、眉を吊り上げて厳しい口調で先頭の男、智之に言った。ここまで何度、ここらへんだ、と聞かされ、肩透かしを食らわされたことか。
「あ、ああ、今度こそ、大丈夫、だと思う」
「もし違ってたら、ただじゃおかないわよ」
「そんな怖いこと言うなよ」
 智之は肩をすくめ、苦笑いをしながら、また何かをきょろきょろと探している。すると、もう一人の女が、
「あれじゃない!」
 とどこかを指差す。その指の先を見れば、まるで獣の爪のように、幾重にも突き出ている鋭い岩石の山肌の陰に、ぼっかりと大きな穴が開いている。洞窟のようだ。
 洞窟は真っ黒な口を開け、霧を飲んだり吐いたりしているように見える。
「この山に、趙高がいるというのか」
 仲間の男が、ぽつりとつぶやいた。智之はそれを聞き、自信ありげに答える。
「ああ、確かに見た。趙高のやつが、この華山に登り、この洞窟の中へ手下どもと入っていったのをな」
「そうか、ともあれ、中に入って調べて。事の真相が明らかになり次第、張良様にお知らせせねば」
 もうひとりの仲間の男が言うと、一同うんとうなずき合って、松明を用意し洞窟の中へと入ろうかとした。その時、
「いや入るには及ばん」
 と、どこからともなく声がして。一同はっとしてそれぞれの得物を手にして、背中合わせにかたまって身構えた。
「よくぞ我らを突き止めたものよ。だが、そのために、ここであたら命を捨てようとはの」
「まことに、笑止千万」
 ひとつ声が聞こえると、また声がどこからともなく聞こえてくる。
 しかし、まるでまわりを囲む霧のように、つかみどころがなく、どこで誰が発するものなのか、見当がつかない。
「何者だ、姿を見せよ」
 智之は叫んだ。声は霧に、そして霧とともに洞窟に吸い込まれてゆくようだった。すると、
「おうさ、冥土の土産に我らの姿を拝ませてやろうわ」
 と、ざっと影が数個、霧の中から飛び出し、一同を囲んだ。
「……」 
 皆目を見張り、息を呑んだ。影はみっつ、ひとつは巨漢だが、ありえないことに太い腕が六本もあった。六本の腕はすべて剣を握りしめ、いまにも一同に斬りかかりたそうに空(くう)に揺らいでいる。
 もうひとつは、これは身の細い白面の美男子だが。その背からは大きな白い翼が生えており、細い腕にあわせてか細い長槍を握りしめている。
 そして最後のひとつ。これは、天界より降臨した天女かと思わせるほどの美少女で、紫の衣を身にまとい。何故か腰には、鞘のみが寂しそうにぶら下がっている。
 美少女は、物憂げに濡れた瞳で一同を眺めていた。
 少女はともかくとして、六本腕と翼人のその姿に、一同は度肝を抜かれてしまい、魂が抜けたように呆然としている。
「わしの六本腕は西の大月氏国(インド)に伝わる鬼神、アスラ(阿修羅)にちなんだものだ。名もアスラというぞ」
「わたしはヤクシャ(夜叉)。同じく、西の大月氏国に伝わる鬼神に由来する」
 と六本腕と翼人は名乗った。しかし、少女は黙ったままだ。六本腕はちぇっと舌打ちし、やむなく代わって紹介してやる。
「こいつは、まあ何の変哲もない屍魔だが、今の乗りでゆけば、そうさな大月氏国に伝わる龍王の娘、龍女としておこうか。この三人で、華山三傑というぞ」
 おどけた物言い、それはもちろん一同をからかってのことで、本当のことは言っていない。これから死にゆく者たちに、本当のことをなんで言う必要があろうか。すると、龍女とされた少女はおもむろに口を開き、
「我不是龍女、我是香澄」(私は龍女じゃないわ、香澄よ)
 と、ささやいた。
 一同、あり得ないものを目に耳にし、度肝を抜かれて沈思のまま。
 ちなみに、三傑の言っていることは仏教に関することなのだが、当時の中国にはまだ仏教は伝わっていないとされる。しかし、最古の王朝である殷王朝跡の殷墟には、アフリカ系の人間のものと思われる人骨が発見されていることを考えると、想像を絶するはるか太古より人間は広いユーラシア大陸を西から東、果てなく旅していたことがうかがえる。そのことから、公の史書に記される以外に仏教あるいはそれの影響を受けた思想が、個人間の範囲ででも、中国に伝えられたこともありうるかもしれない。
 以上余談終わる。
「さて与太話も終わった。死ね!」
 アスラの六本腕が、六本の剣が唸りを上げた。続いてヤクシャの翼がはためき、長槍を振るい一同向かって飛び掛ってくる。だが香澄はじっとしたままだ。
 智之らはおののきながらも敵襲に備えた。が、しかし、
「くそ、なめやがって!」
 ひとり、仲間が刀を振るいアスラに向かった。それをきっかけに、皆それぞれの得物を振るい、勇を鼓して華山三傑に挑みかかった。
「はははは、どうしたどうした」
 アスラは六本の腕と剣を巧みに使い、相手の得物を受け流し、もてあそぶ。香澄は、アスラのように相手をもてあそばず、飄々と身をかわすのみ。
 それを横目にヤクシャは、女の腕を掴み、翼を大きく羽ばたかせて、宙高く飛んで濃い霧の中隠れてしまった。本来のヤクシャ(夜叉)は空を飛ぶとされ。彼に翼があるのは、そこに由来している。
「きゃああぁぁ!」
 鼓膜を突く女の悲鳴が霧の中響く。
「離して、離してよ」
「よし、望み通り離してやろう」
 どのくらい高く飛んだか、叫びもがくのも構わず、ヤクシャの細い腕はしっかとその腕を掴んでいたが、ぱっと握る手を開いて女を離した。それから女は、はっとしたものの、時すでに遅し。
 霧の中、悲鳴が長く響いたあと、どん、という鈍い音とともに、その悲鳴が止んだ。

地獄・2

 ぎょ、と男がその方を振り向いたそのとき、アスラの剣が六本、胸に三本と腹に三本貫いて。それから、上下左右に力がこめられ、男はばらばらになり。どっと血をふりまきながら、肉片がちらばってゆく。
 もうひとりの女は仲間が早ふたりも斃されたことをさとりながら、香澄に必死の猛攻を加えていた。衣の袖は軽やかに舞うばかり、剣はかすりもしない。
 ふと、香澄がはっとしたように眉を動かした。何だ、と思う間もなかった。突然剣光が閃くや、女の首は胴を離れて飛んだ。
 首は何が起こったのかわからぬまま、血筋を引いて、阿呆みたいに目と口を開けたまま宙に浮いてから、どすんと脳天から地に落ちた。
 胴は首から血を噴き出しながら、ばたりとたおれた。
 噴き出した血が、香澄にかかる。
 その白面に、衣に、血が散り。赤く染まる。
「お、おのれ」
 怒号が響く。アスラはふんと鼻でせせら笑って、おもむろに怒号に向かって、女の首を拾い上げて投げつけた。
 血のぬめりを感じながら、香澄はじっとたたずむのみ。それからその瞳に、虐殺が映し出された。
 赤子の手をひねるように。まさにそれだった。
 気がつけば、智之以外、皆無残な肉塊と化していた。
「ふん、まるで手ごたえのない」
 アスラとヤクシャは智之の前に仁王立ちして、思い思いに痛罵を吐きかける。
 智之は、がたがた震えて子供のように泣き叫びながら、
「ど、どうか命ばかりはお助けを」
 と必死に命乞いをしていた。
「はっはははは! 今の方が、さっき剣を振り回していたときよりも気合が入っとるぞ」
「どうするアスラ」
「そうじゃな。まあ見逃してやろう。漢の連中に、わしらのことを触れ回ってもらうためにな」
「そうだな」
 というと、ヤクシャは槍を突き出し。
「お前は、まあ、見逃してやろう。漢に帰って、とくと我らのことを触れ回れ。そして、やがて秦がまた覇を唱える、ともな」
 冷淡に、そう説いた。智之はただ命惜しさに、「はい、はい」ばかり繰り返している。
「目障りだ、早くいけ」
 鬱陶しそうに、アスラが六本の腕を振り上げると、智之は転びながら華山の急勾配を駆け下っていった。その無様な姿を、アスラは六本の腕で腹を押さえて大笑いし。ヤクシャは冷笑を送る。
 香澄は、淡々としたままだ。
「ふん、華山三傑か。香澄、お前は三傑の面汚しじゃ。ひとりも殺さん」
 智之に向けていた痛罵を、今度は香澄に向けるアスラ。ヤクシャはじっと香澄を見据えているが、同意見のようで、その目は異様に冷たい光りを放っている。
 深い霧は、ますますその濃さを増し、一面白の世界となってゆく。
「まあよいではないか」
 ふと、洞窟から声が聞こえた。
「これは、趙高様」
 アスラとヤクシャは、洞窟の入り口に人影を見止めると、さっと跪いた。香澄もゆったりとそれに続く。
「ほほ、苦しゅうない。なかなか楽しく遊んでいたようではないか」
 三傑に跪かれ、趙高と呼ばれた者は、満足げに笑っていた。それは、男のようだが、髭がない。顎はやけにすべすべしている。そう、この男こそ、秦に仕えし宦官(去勢された役人)、趙高であった。はじめ始皇帝に仕え、それから謀(はかりごと)をもって二世皇帝を立て、欲望の赴くままに二世皇帝を操り私利私欲をむさぼり暴政の限りを尽くし。
 自分の立てた二世皇帝を、邪魔となれば殺した。しかし、悪因悪果、かつて楚軍に属していた劉邦が咸陽入りする折、その存在が災いであると、皇族のものによって、ついに趙高はそれまでの報いを受けることとなった。そのはずだった。
「間抜けな密偵にわざとこの華山を探らせたが、大当たりであったようじゃな」
「趙高様のお目の高さ、我ら感服したてまつってございます」
 慇懃にヤクシャは言う。こうした礼儀作法に関しては、アスラは苦手か愛想よく相槌を打つのみだが、ヤクシャはそれなりに心得ているようだ。
「こうして遊べるのも、趙高様のおかげでございます」
「そうじゃろう。『活死自在経』を得たわしに、つくれ得ぬものなど、ない」
 自信たっぷりにそう言い放つ趙高。香澄は物憂げに濡れた瞳を伏せて、じっと跪いていた。
「影武者の命と引き換えに、再起を図るためにこの華山に引き篭もっておるが、もうよい頃合じゃて」
 趙高は、三傑を見下ろしてしみじみとひとりつぶやいた。洞窟の真っ黒な口は、霧を吐いたり吸ったり。その霧に混じって、何か、獣じみたうめき声がながれるように聞こえてくる。
 趙高はそれを耳に、悦に入っていると。その左右から、屍魔がぞろぞろと洞窟から這い出してきて、肉塊となった漢の密偵たちを、貪り食いだす。
 服を引き裂き、肉を食い破り、噛み千切る、耳障りな音が、深い霧の中で響きわたる。音に続いて、赤い血潮が地に溢れて流れ出し、ところどころのくぼみには、血溜まりができていた。
 その血溜まりを、地に伏し舌を出し野良猫のようにぺろぺろ舐める屍魔もある。常人が見れば、そこはさながら地獄そのものであろう。
 それを趙高は、まるで酒池肉林にあるように、愉快そうに身体さえゆすって楽しそうにしている。ふと、屍魔のひとつが、女の細腕をくわえて趙高の方を振り向けば、趙高は子供を愛でるように微笑んだ。
「よこせ」
 おもむろに、アスラが屍魔から女の細腕を取り上げ、口の周りを血まみれにして、むしゃむしゃと貪り食った。
「ひと働きしたあとのメシは美味いのう」
 と、ご満悦だ。
「美味いかえ?」
「はい、趙高様、美味うございます。これも趙高様が、わしらを屍魔としてつくり上げてくださったおかげでございまする」
「ほほ、そうであろう。そうであろう。『活死自在経』を苦心惨憺たる思いで研鑽したればこそ、汝らをつくることができた」
「このご恩、粉骨砕身して、報いさせてもらいまする」
「うむ。期待しておるぞ」
 趙高は、屍魔たちを眺めているうちに、胸のうちから何とも言えぬ感傷が沸き起こり。霧覆う空を見上げ、一人物思いにふけった。

地獄・3

 霧の向こうにあるであろう太陽が、霧の中にほのかな円形の光りを描いている。それは霧の流れに乗って、ゆるやかに回っているようにも見え。見るものはまるで、円の中に引き込まれてゆくような錯覚におそわれそうだった。
 趙高は、光りの円の奥に、何を見ているのだろうか。
(思えば、きっかけは始皇帝の不老不死を叶えるためじゃった。あらゆる手を尽くしても、どうにもならなんだったが。そんな時に、西方に行かせた配下の者が、『活死自在経』を探し当てたのだ)
 空を見上げながら、回想にふける。知らず、ため息をつく。
(じゃが、それは不老不死の経典ではなかった。屍魔をつくり上げる、邪法の経典であった。それでは意味がない、と奥にしまっておったのだが、その時はよもや秦の滅ぶ日が来ようなどと思わなんだ。しかしそれによって、この経典を生かすことになろうとは、なんという皮肉であろう)
 視線を下げ、華山三傑を眺める。よく出来たものだ、と顔がほころぶ。経典に書かれていることを研鑽し、学び、理解し、実践することによって。死者に魂を吹き込めるばかりか、人獣の別なく、死者の身体をつなぎ合わせて思い思いの生き物をこしらえることも出来た。言うまでもない、それを従順な下僕とすることも出来た。 
(いや、皮肉などではない。これは天命である。経典をもって屍魔による一大軍団をつくりあげ、ふたたびこの地上に、秦の天下を蘇らせるのだ)
 趙高は言いようもない感傷と高揚感と、陶酔感を味わっていた。一時は天下を動かした身である。夢よもう一度と、自身の手によって天下を動かせるのかと思うと、それは胸の奥底で爆発しそうだった。
 さて、この屍魔たちをどのように動かそうか、と思索をしようとしたとき、静かに跪く香澄の腰にある鞘が目に入った。過日、人間と戦った折りに、剣を無くしてしまったという。
 あの剣は、香澄の出来栄えを見込んで持たせた宝剣である。また、秘策あって持たせた宝剣でもある。しばらくの間、その出来栄えを確かめんと共を連れて旅をさせたのであったが。
 見込み違いであったか、と幻滅しそうなのをこらえ、こほんと咳払いをする。
「香澄」
「はい」
 趙高に呼ばれ、香澄は瞳に地獄を映し出しながら返事をする。
「わしはそなたの出来栄えに期待したからこそ、七星剣を持たせ、武者修行の旅に出した。だのに、その期待を裏切ったこと、忘れてはおるまいな」
 香澄は、趙高に詰め寄られるように問いかけられ、静かにうなずく。その様を、アスラとヤクシャが冷たい眼差しで眺めている。
「忘れては……、おりませぬ」
「ならば、どうすればよいのか、わかっておろうな」
「……」
 香澄、沈黙。趙高にこたえない。その美しさと武術は秀でているのに、どうにも思考の方は遅れがちであるようだ。
「鈍いやつめ。七星剣を取り戻すのじゃ。それから、項羽に近づき愛妾となるのだ。忘れたのかっ!」
 その鈍さに苛立ち、声を荒げる趙高。
「それができねば、そなたはほれ……」
 と屍魔が貪り食う漢の密偵たちの肉塊を指差し、
「あれじゃ」
 と冷たく言い放った。屍魔は、生前の記憶がなく、自分の名前を覚えていない。だから、後でアスラ、ヤクシャといった名前をつけたのだが。香澄は、なぜか生前の名前を覚えていた。もしそうでなければ、アスラがおちゃらけて言ったように、龍女となっていたかもしれない。
「趙高様、もし香澄がしくじれば、わたくしめに」
 アスラが舌なめずりしながら、言った。その食欲は同じ屍魔にも向けられるようだ。
「ふん、無事華山に戻れたらな」
「へへ、左様で」
 余計な口出しをするな、と主にすごまれ身を縮めるアスラを、ヤクシャは冷ややかに横目で眺めて黙っていた。
(我らの仕事は趙高様のお言いつけに従えば、それでよいのだ。それ以外のことをする必要はない。相変わらず、アスラは、愚かな奴だ)
 と心で軽蔑した。また、
(香澄も、見てくれだけの肉人形ではないか。それで、華山三傑か。まったく、それらと同列に並べられる、我が身の哀れさよ)
 とも密かに歎いた。
 そのとき、洞窟より、
「趙高様」
 と呼ぶ男の声があった。その声には張りがあり、声に続いてひとりの男が現れた。年のころ三十少し過ぎ。健全な肉体をもち、愛嬌のよい笑顔をしながら、目には異様な鋭さがあった。それは生きている男の人間のようだ。
「なんじゃ、水朝優(すいちょうゆう)」
 男、水朝優は趙高のしばし後ろで跪き、
「香澄めの咎(とが)、我が咎でございまする。もし宝剣を取り戻しに行かせるならば、わたくしめもご一緒させていただき、共に宝剣を取り戻したいと思います」
 とうやうやしく言った。すると、後からまたひとり、これまた生きている人間のようだったが、それが来て、
「わたくしめも、ご一緒させてくださいませ。香澄の咎、そして水朝優の咎は、我が咎でもありまする」
 とうやうやしく言った。
 それは白い衣を身にまとい、また白い頭巾で顔を隠している。その声と、細く柔らかな線をえがく身体つきからして女のようだが、どこか言葉の発音が違っていて、異邦人のようだ。
「麻離夷(まりい)、そなたもか」
「はい。どうか、七星剣を無くした罪滅ぼしをさせてくださいませ」
 水朝優と、麻離夷のうやうやしく跪く様子に趙高はしばし考えをめぐらせ、香澄と交互に見つめ、うむとうなずく。
「よかろう。香澄とともに華山を下り、七星剣を取り戻しにゆけ。そして、なんとしても項羽に近づき、その愛妾となるよう取り計らえ。あの宝剣は、そのためにあるのじゃからな」
「はは、そのお慈悲に感謝いたしまする」
 ふたりは地に頭をつけ、深くひれ伏した。趙高はそれを冷たい目で見下し、
「もししくじれば、あれじゃ」
 と肉塊を指差し、厳命に釘を刺す。
 もちろん覚悟の上でございます、とふたりはさらに額を地に押し付けひれ伏し。香澄を洞窟の奥に戻して旅支度を整えると、華山を下りた。
 香澄は、物言わぬ人形のように黙ってふたりにつき従った。アスラ、ヤクシャはそれらを見送ると、
「趙高様、我らにもなにとぞお下知を。どうか、ご恩に報いる術を」
 と焦るようにして、うやうやしくひれ伏した。が、まあ待て、慌てるな、と趙高はそれを制し、
「あれらは、鹿をさして馬という愚者である。まず使うなら、それからである」
 と、霧の向こうに消えた三人に冷たく言い放つように、つぶやいた。

scene2 地獄 了
scene3 赤鹿毛の女 に続く

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赤鹿毛の女・1

 源龍は、徐州は彭城(ほうじょう)へと、歩みを進める。漢の劉邦率いる五十万の軍勢が、楚の都の彭城を目指しているという。その軍勢に加わるのだ。
 歩きながら、時折背中の剣に手をやり、手ごたえを感じ、香澄が取り返しに来るかどうかを思うこともあった。
 最初裸身のまま腰帯にさしていたが、やはり不便なので旅の途中でにわかにつくって背中に差している。すれ違うものたちは、腰と背中に剣を身に着けている源龍を珍しそうにしていた。剣をふたつ使う使い手かと、江湖の剣客ややくざものと一戦まじえたこともあったし。他に、旅人を襲う山賊の類に襲われたこともあったが、決して背中の七星剣を使うことはなかった。
 売られた喧嘩は買っても、人の剣で喧嘩をするようなことはしない源龍であった。
(そういえば、韓信さんは、股をくぐったんだな)
 ふと、韓信の股くぐりの逸話を思い起こした。今漢の劉邦に仕える韓信は、昔は怠け者であったそうだが、腰にはご立派に剣を佩いていた。それを見たごろつきに、「その剣で俺を斬ってみろ。出来なければ、俺の股をくぐれ」と言われ、股をくぐったそうだ。
「俺には出来ない芸当だな」
 ふう、とため息をつく。剣をふたつも持っているせいか、前にもましてならず者たちに挑まれることが増えた。が、片っ端から斬り捨ててやった。我ながら堪え性がない、と苦笑いする。
 それだけではなかった。旅をする中で、戦乱の傷痕を見、口元を硬く引き締め、足早に過ぎ去ったことも何度あったか知れない。
 戦乱のため土地も人心も荒れ、民は餓え、追いつめられて人が人を食らうということもあった。餓えた民が、鍋で死人を煮込んでいるのを見たときは、さすがに源龍も青ざめたものだった。
 だが、戦乱があって、生きているものもいる。例えば、源龍のような。
 胸のうちでざわざわと雑音が響いてくるのをこらえ、なるだけそれは見なかったことにし、考えないようにしていた。
 秦の始皇帝が他の六国(りくこく・斉・楚・燕・韓・魏・趙)を制し、この大陸を統一した。秦は、伝説によれば、殷の紂王に仕えた悪来の子孫であるという。悪来は勇猛にして怪力無双、秦の大陸統一事業は他の六国にしてみれば、まさに悪(当時この言葉は強者を意味する)が来たる思いであったろう。
 そして徹底的な征服者としての力と法治主義とをもって、大陸を支配した。すなわちそれは、力こそ正義であり、その力を備える秦のもと、天上天下、すべては秦のためにあり、秦の所有物である。というようなことを法制化し、万里の長城や美女三千人といわれる後宮の阿房宮をはじめとする巨大建設物の建設事業のために、多くの人々が借り出され、そこで酷使させられた。
 その一方で永遠の繁栄と享楽を望んで死を恐れ、不老不死を追い求めたが得られず、統一後十五年目に死んだ。と同時に各地で反乱が相次ぎ、秦が滅ぼした国が次々と復興した。その筆頭にあったのが、源龍の祖国、楚であった。
 当時の楚軍には、項羽はもちろん、劉邦も属していた。
 楚人は、感情が豊かで激情家が多い地域性そのまま、秦への激しい憎しみを抱き続け。たとえ残り三戸となるも、秦を滅すは楚ならん、と人々は唱え、秦への報復を心に刻みつけてきた。源龍も幼いころから、秦への憎悪をよく聞かされ、心に刻み付けられてきた。
 そして楚はついに秦を滅ぼした。
 まず劉邦が都咸陽に入り、次いで項羽が入った。劉邦はよく徳をもって咸陽を治めたが、項羽は違った。
 咸陽に火を放ち、人の獣性をむき出しにし、略奪や虐殺をもって都を廃墟となさしめてしまった。
 それからの論功行賞もまずかった。婦人の仁丸出しで、実際の功績に関係なく、自分が好きか否かですべてを力づくで片付けてしまった。劉邦は、漢王として、巴蜀の地(四川省)を治めさせた。ここはまたひどい僻地で、交通の便のすこぶる悪い未開の奥地で、罪人の流刑地であったりするなど、まさに陸の牢屋の態をなしていた。
 項羽にすれば、劉邦は目の上のたんこぶであり、領地を与えるよりも流罪にしたに等しかった。
 そんなことだから、項羽に反発した者たちが各地で反乱を起こしたし、なにより楚の皇帝に対する下克上がより一層項羽への造反をうながしてしまった。
 項羽には、悲しいかな、政治的配慮というものがまったく欠けて。すべてを己の武勇でねじ伏せるという、子供っぽさばかりが目立った。劉邦にとって、そこはまさにつけ込みどころであった。僻地より旗を立て、反項羽勢力を味方につけ、天下はまた動乱せんと渦を巻き始めた。
 そんな項羽ではあったが、その強さは天より戦神でも降り立ったかのごとく、凄まじいまでの強さを誇った。
 戦場を駆け巡り、剣風吹けば、すべてが木っ端微塵に打ち砕かれていった。それを目の当たりにして、
(剣士として、これ以上の好敵手はいないのではないか)
 と思うようになり、いつしか、秦への憎しみが、項羽との戦いを望むものと変わっていった。無論、楚人としての葛藤もあった。
 しかし、剣士としての気持ち抑えがたく、楚軍を離れて江湖を渡り歩いて武者修行の旅に出て、武芸に磨きをかけていた。が、どうすれば項羽と戦えるかが悩みであったが、劉邦立つ、の報を聞くに及んでその勢力に加わって、機をうかがおうとしたのである。
 香澄や貴志との出会いは、まさにその道半ばでのことであった。
 ともあれ、源龍は劉邦軍を求めて旅を続けた。
 日も暮れ、道端にひっそりとたたずむあばら家があって、夜はそこで過ごすことにした。
 その夜は、星星は白く輝き、満月冴えわたって月光地上を灯す夜であった。
 食うものはない。途中兎や鳥を捕らえて食いはしたものの、一日中歩いたために消耗も著しく、満腹などここ数ヶ月味わったことなどなかった。が、それでも戦乱のため餓えた民よりはましな方である。
 贅沢はいかん、と自らに言い聞かせ、明日に備えて寝ようとしたときのことであった。彼方から、馬の蹄の音がしたかと思うと。
「ようし、今夜はここでお休みするよ」
 と張りのある、粋のいい女の声が夜気の中、ぱん、と弾けるように響いた。
 それに続き、おう、だの、へい姐さん、だの、
「今日も稼げましたねえ」
「これだから、元手なしの商売(盗賊)はやめられねえ」
 といった男のだみ声も響いた。
 なんだ、と源龍は閉じていた目を開けて、いつでも立てるよう身構え、右手は自分の剣の柄に手をかけ、左手で七星剣を持ち、様子をうかがっていると。女がひとり、あばら家の中へとずかずか入り込んできた。
「あら」
 女は源龍を見止めると、くすりと愛想よく微笑んだ。
「先客がいらしてたのね。ご一緒させていただいて、よろしいかしら」
 媚びるような物言い。張りもありながら、どこか鼓膜へと溶け入りそうで、並の男ならその声だけでも十分そそられそうだった。
 あばら家の窓から漏れる月光が、女を照らし出す。
 服の色は赤ながらも、女だてらに男物の服を着ている。それでもややきついか、服は肢体を包みその柔らかな線を描きながら、はちきれんがばかりだ。

赤鹿毛の女・2

 丸く黒い瞳のおさまる、鋭い切れ長の目に、高い鼻、そして朱を塗ったような唇と、端正な顔立ち。背中まで伸ばした髪は結わず、揺れるにまかせている。
 しなやかな線を描く腰には、剣。
「……」
 源龍はじっと女と、あばら家の外にいる数人の男どもをを眺めている。馬は近くの木にくくりつけている。
 男どもは皆武装していて、やけに面構えが悪く。どう見ても、堅気ではない。それは、さっきの会話からとうにわかっていた。
「いや、出よう」
 おもむろに立ち上がって、源龍はあばら家を出ようとすると。
「ちょっと、待って」
 と女は呼び止める。目は源龍をじっと見つめている。特に、左手に持つ剣に。どうやら二剣を使う使い手だと思っているようだ。しかしそれを無視し、そのままあばら家を出れば、男どもは満面に朱をそそいて目をいからし、源龍の前に立ちはだかった。
(んっ)
 ふと、立ちはだかる男どもの向こうに見えるものに、源龍はふと見入っていた。それは赤鹿毛の馬であった。赤鹿毛の馬は、月光に照らされ赤く光り輝いているように見え。また眼光鋭く、大柄で引き締まった肢体に、どこからともなくほとばしる覇気。それは、赤鹿毛の馬が駿馬であることを、無言のうちに物語っている。
「おい、何を見ている」
 明らかに自分たちをも無視しているとわかり、男どもは声を荒げて源龍に詰め寄る。
「姐さんがお呼びしたんだ、ちゃんと返事しやがれ」
 ということを異口同音に叫んだ。叫ぶあまり、唾が源龍の顔に散ったほどだった。が、そのとき。かっ、と頭に血が上り源龍は男をひとり、思いっきり蹴飛ばすとともに、剣を抜き放って、おもむろにひとりを斬り下げてしまった。
 月光もまばゆい満月のもと、血煙が舞い。その血煙のもと、斬られた男はどおっとたおれて、そのままこと切れていた。
 他の男どもはそれ驚いて、得物を構えて源龍を取り囲み。
「て、てめえ」
 と口々にわめき、今にも飛び掛らんばかりだった。しかし、剣を握る源龍がそれらをひと目見据えるや、魂を思いっきり鷲掴みされたかのように身体が固まって、威嚇以上のことが出来なかった。
「ぬぐえ」
 と、源龍は女に言った。女は突然のことにややぽかんとしていたようだが、源龍の言葉を聞き、はっとしたように、「なんだって?」と気丈に聞き返す。
 すると源龍は、女をひと目、横目でじろっと睨みつけ。
「ぬぐえ、と言ったんだ。あいつらの唾が俺の顔に散った。それをぬぐえ」
 とまでのたまった。
 その無造作にして高飛車な物言いに、満面に朱がそそがれ、紅蓮の炎が心中に燃え盛った。いったいこの男は自分を何様だと思っているのか、また、わたしをなんだと思っているのか。ひと目見て、男の足元に跪き、媚びを売るような女ではないことは、わかりそうなものだが。
 それでも構わずに、あんなものの言いよう。
(なるほど、命がいらないと見える)
 見所がありそうだから、子分にしようと思ったけど。やめた。
「ふん。唾どころか、あんたの顔から皮を引っ剥がしてやるよ」
 と剣柄に手をかけた。いやそれは、剣かと思われたが女が柄をにぎり剣と思われたものをひと振りした途端に、ぐにゃりと曲がりくねったかと思うと、急に向きを変えて、風を切って源龍の横顔に叩きつけられようとする。
(軟鞭か!)
 相手の武器の正体を見破り、さっと後ろへひと飛び。鼻先を、軟鞭の先がかすめてゆく。軟鞭とは、短い棒を鉄の輪でつなぎ合わせた柔軟性のある武器(軟器械)のことだ。
 その軟鞭は胴で出来ているようで、月光に照らされて胴の胴褐色が時折、赤く光る。
「赤飛鞭、羅彩女とはあたしのことさ!」
 大喝一声。女、羅彩女(らさいにょ)の振るう軟鞭は蛇のように、まるで命があるかのように自在に曲がりくねっては、源龍の顔面に打ち付けられようとする。のみならず、羅彩女自身までもが軟鞭と一体となったように自在に飛び跳ね、攻めをかわす源龍にしつこく付きまとい、軟鞭の攻撃範囲から決して逃さない。
「赤飛鞭? そんなもの、知るか!」
 源龍は叫んだ。実際にそんなあだ名も、羅彩女の名も初めて聞くが。なるほど赤飛鞭(せきひべん)と、自らあだ名するだけはあった。飛ぶが如く、羅彩女は軽やかに飛び跳ね源龍を追いたて、その手に握る軟鞭もまた、蛇が飛んで襲い掛かってきているかのようで。何度か鼻先や頬をかすめたことか。
 しかし、そんな間違った認識をしているだろうと、羅彩女はあらから予測をついていたのは、源龍は知らない。
 男どもは、
「やっちまえ!」
「ぶっ殺せ!」
 と好き放題叫ぶ。姐さんが本気を出せば、誰だろうとかなわない、という絶対的な信頼を置いているのがそのでかい声からよく伝わってくる。源龍はくだらないとばかりに忌々しく舌打ちする。
「確かになかなかの手練れだ」
「ほほ、ありがとうよ」
 源龍のつぶやきを、嘲笑いながら羅彩女はかえす。軟鞭はその勢いとどまるところを知らず、いまかいまかと源龍の顔面を、頬骨を打ち砕かんとする。
 ちり、っと前髪を鞭先が刎ね(はね)飛ばす。そこからすかさずまた方向転換をし、今度は脳天目掛けて打ち下ろそうとするその一瞬、まさに軟鞭が方向転換をする直前の一瞬動きが止まるのを見計らい、源龍はここぞとばかり、だっと駆け出し素早い刺突を繰り出す。
 剣先が、羅彩女の喉もと目掛けて飛ぶ。
 はっ、として羅彩女は軟鞭を下げつつ右手へ飛んでかわすが、今度はさっきのお返しとばかりに、源龍の剣がしつこく迫ってくる。もちろん左手の七星剣は使わない。
「ただし、民百姓相手のな」 
 と、さすが楚軍で倒秦の戦場を駆け巡っていただけに、戦いの機を見切る業は源龍が一枚上手のようであった。軟鞭は防御に弱い。勢いをつけて鞭先で相手を打ち砕いてこそ威力がある。しかし懐に入られると、自慢の赤蛇はわき腹が弱点であることを見せ付けてしまう羽目になる。
(こいつ、やっぱり只者じゃない)
 その威圧感。修羅場を潜り抜けてきた剣士であろとは思っていたが、まさかそこまでとは羅彩女も見抜けなかった。それ以上に、相手があの覇王項羽との戦いを望み、修行を積み重ねてきたなど、なんで知ろう。
「姐さん、那二零だ!」
 子分が叫ぶ、いつの間にか、例の赤鹿毛の馬は木から解き放たれその口輪は子分が握っていた。それを見て源龍、
「乗れよ。お前の馬だろう」
 と剣を止め、あごで馬を指し騎乗をうながす。源龍も剣士であるとともに武人である、馬を見る目はあり、あの、那二零(ナジレイ)と呼ばれる赤鹿毛の馬が、非凡なものであることは、とうに見抜いていた。
 きっ、と源龍をねめつけ。
「後悔するんじゃないよ」
 と愛馬に飛び乗る羅彩女。
 愛馬、那二零にまたがれば、たちまち人馬一体。馬は鳴き声も高らかに月に向かって、威風堂々と吼え猛けり。空(くう)が揺れ、腹にまで馬のいななきが響きわたるようだった。

赤鹿毛の女・3

 源龍は片目を少し閉じて、顔をしかめる。
 人馬一体となった羅彩女と那二零、その周りの空が、どこか紅蓮の炎が燃え立ったように揺らいでいる。
「さあ、ここからがほんとうの赤飛鞭だよ」
 張りのある声で叫ぶ羅彩女。那二零も大喝にいななき、蹄の音もけたたましく源龍に突っ込んでくる。騎乗の敵を相手に、徒歩立ちは不利。だが敢えて源龍は羅彩女を馬に乗せた。相手を有利に、本気にさせたうえで打ち負かしてこそ、意味がある。
 そうでなくて、なんで項羽の相手がつとまろう。
「ゆくぞっ!」
 自分に向かい突っ込んでくる赤鹿毛に向かい、源龍大喝し、だっと駆け出す。まっすぐ那二零に向かって突っ込んでゆく。
(こいつは、阿呆か)
 羅彩女は手綱を引いて那二零を走らせながら、前足を上げさせる。その蹄で蹴り飛ばすのだ。同時に、軟鞭をしゅっと繰り出す。蹄と軟鞭が同時に襲い掛かり、源龍はよけようともせず駆けながら剣を突き出し蹄に打ち込もうとする。そこへ軟鞭。源龍の横っ面を弾こうとする。
(だめか)
 さっと前にたおれるとともに、素早く寝転がって右手に逃れる。顔のすぐ横で、那二零の蹄が地に深くめりんだ。その次の瞬間、さら寝転がってうつぶせになるとともに、勢いよく手で地を突き背をそらし、くるっと後ろ向けに一回転。そして着地。
 イチかバチかで仕掛けたが失敗した、と苦笑いを浮かべ。さらに後ろへ下がる。前髪がまた少し、軟鞭に刎ねられた。
 今度は上方向からである。騎乗、それも屈強な赤鹿毛の名馬を駆ってである。さっき羅彩女が徒歩立ちで攻め立てていたときよりも、すくなくとも三倍は速い。となれば、かわすのも一苦労だし、攻めるのはもっと一苦労だ。
(なるほど、赤飛鞭)
 騎乗から繰り出される軟鞭は、鷲が獲物を狙い急降下してくるように、さっきよりも増してまさに赤銅色の鞭が空から飛んでくるが如くだ。
「ほらほら坊や、どうしたどうした!」
 相手を坊や呼ばわりしながら、羅彩女は那二零の上から軟鞭を繰り出す。源龍は逃げるばかり、なす術なしかに見えた。それを見て、
「圧倒的ではないか我が姐さんは」
 と、子分の男どもはやんやの大喝采だ。だが源龍は、悪戯好きな悪餓鬼のように、にっと笑った。それを見過ごす羅彩女ではない、形勢はこっちが有利なはずなのに、どうして相手はそんなに笑うのか。
「秦の兵士相手なら、まあものになるだろう」
 相手の笑うのを見て、羅彩女が一瞬眉をひそめたのを見逃さず、源龍はからかうように言った。さらに、
「馬がもったいない」
 とまで言った。羅彩女の激怒せんことか。
「ほざけ! 負け惜しみを」
「負け惜しみではない。証拠に、一剣しか使ってない」
「ふん、我慢しないでふたつとも使いなよ」
「いやだ」
 と言いながら、源龍は逃げの一手。決して七星剣を使おうとはしない。それを侮辱ととった羅彩女は、ますます怒り猛って、火を吹くように攻め立てる一方だ。
(女はともかく、問題は馬だな)
 源龍は馬の動きに目をみはった。その赤鹿毛の馬はまさに俊敏で、付け入る隙もなさそうだ。羅彩女も巧く乗りこなしている。
 項羽には、騅(すい)という愛馬がある。それもまた名馬であるという。
(あの馬なら、騅にも負けまいに)
 と思うと、にわかに那二零が欲しいという気持ちが湧き上がった。源龍、今まで戦場を駆け巡ったといっても位は低く、一応馬には乗っていたが、いい馬は与えられなかった。戦場では、何度騅に置いていかれたことであろう。
 ともあれ、そうなれば馬を傷つけるわけにはいかない。さてどうするか、と思ったときふと一計を閃いた。
 と、すると、源龍は子分の方へだっと駆け出すや、ひとりとっ捕まえていきなり前にかざす。突然のことに、捕まった子分も抵抗のしようがなく、されるがままだった。
「あっ」
 と一斉に声が上がった。
 とともに、軟鞭が子分の顔面を打ち砕いた。
「しまった!」 
 あまりのことに、羅彩女は狼狽し動きが止まり。それを見逃す源龍ではなく、顔面を打ち砕かれ、顔を真っ赤にして息絶えた子分を投げ捨てると。すかさず駆け出してその勢いで跳躍し、羅彩女の腹に激しい蹴りを見舞った。
「ああっ!」
 なす術もなく、那二零から転げ落ちる羅彩女。まさか子分を盾にするとは。
 源龍は蹴ったついでに羅彩女を跳躍台にして、子分のところまでひとっ飛びし着地。
「この野郎!」
 子分どもは我を忘れ、一斉に源龍に飛び掛る。だが、誰もかなわず、片っ端から斬り伏せられてゆくのみであった。
 地に叩きつけられる衝撃が身体中に走るとともに、視界が途端に真っ暗になり。ようやく目が見え始めたとき、子分たちは皆源龍に斬り殺されてしまっていた。
 いくら民百姓相手の盗賊でも、あっという間にひとりの人間によって全滅させられてしまうとは。しかも、ふたつある剣のうち一本しか使わず。
 左手は、しっかと鞘に収まった剣を握ったままだ。
「……」
 ようやく上体を起こし。長い髪が目を覆って、髪間から見る光景に、羅彩女は絶句し。ずきりと痛む腹のため、うっ、とうめいてまた地に倒れ臥す。
 軟鞭はいつの間に離したのか、手には何もない。そこへ那二零が、羅彩女の頬にその鼻先を摺り寄せてくる。
「那二零。負けたよ」
 と、寂しげにぽそっとつぶやいた。哀れ子分も皆殺しの憂き目に遭ってしまった。このご時勢に、強きを助け弱きをくじく、そうでもしなければ生きていけなくて。肩を寄せ合うように、力を合わせて生きてきた。
 だがやはり、悪因悪果、盗賊の最後など、所詮そのようなものだった。まっとうな死に方は出来ないだろうと、心の奥底で思ってはいても、いざそれが現実のものとなると、どうしようもないやるせなさにも襲われて。
 ふと、羅彩女の脳裏にそれまでの越し方が思い浮かぶ。
 出生が中原という以外に知れない、過去を持つらしい母と。そんな母を哀れに思い、また愛した匈奴の父の間に生まれて、長城の向こうの草原で遊牧を営む生活を送った幼い日。匈奴は北方の騎馬民族で、たびたび秦と激しい戦いを繰り広げた。万里の長城は、その匈奴対策のために建てられたものだ。
 家族には、自慢の馬があった。それが那二零だった。羅彩女と那二零は幼い日から苦楽をともにした、いわば分身のようなものだった。
 その素朴にして仕合せな日々は、秦の暴風雨のような匈奴征伐のため、滅茶苦茶に壊され。戦乱の渦中、家族は……。
「彩児、逃げるのよ。何があっても生きて、生き抜くのよ!」
 それが、最後に聞いた母の言葉だった。母は泣き叫ぶ羅彩女を力ずくで那二零に乗せて、その尻を引っぱたき遮二無二に走らせた。
 振り返って、小さくなってゆく母。それから、怒涛のように押し寄せる秦の兵たち。それからは、覚えていない。思い出すには、あまりにも辛すぎる記憶で、胸の奥底に仕舞いこんだきり。
 父は秦との戦いに赴き、それきり帰って来なかった。
 それから、那二零とともに江湖に生きてきた。なまじ容姿に恵まれているために、何度愚かな男たちの毒牙に犯されそうになったこともあったか。そんな自分の身を守るために、武芸を覚え、特に鞭ではちょっとやそっとでは引けをとらないところまで、その腕を磨いた。
(だけど、それがいつの間にか、あらぬ道に迷い込んでしまったね……)
 その鞭をもって、力なき民百姓から奪う、ということを覚えてしまった。すべては、生きてゆくために。生きてゆくために、憎しみを抱いていた秦と同じようなことをしていることに、気付かなかった。ただ、生存本能だけがあった。
 鞭をもって奪うことをするうち、あの子分どもと出会い、徒党を組み、そして今に至った。
(ああ、せめて、女らしく、恋のひとつでもしたかった)
 今さらのように、そんなことを思い。惨めさが胸中に溢れ、目頭が熱くなってくる。那二零は、そんな羅彩女を慰めるように、ずっとそばにいて、鼻先で頬に触れていた。
(もう一度、私を走らせてくれ)
 と言うように。

赤鹿毛の女・4

 源龍は人馬の情厚いさまをじっと眺めていたが、何を思ったか、おもむろにそばまで来る。
「どうしたの。あたしを手篭めにでもするのかい? そうだね、戦利品が欲しいよね。なら、やるよ、好きにしな」
 捨て鉢なことを言う羅彩女だが、那二零は頭を上げて、静かに源龍を見つめている。
 羅彩女の見上げる源龍の、その向こうに、煌々と光る月光。星たちは、静かにまたたき、地上を見下ろしている。
 すると、源龍は羅彩女に見えるようにして、手で顔をぬぐう。その顔は返り血を浴び唾どころか血があちこちに飛び散っていたが、それらを手でぬぐう。さっとぬぐっただけで、きちんと血は取れず、まだ返り血の残る顔を羅彩女と那二零に向け、何やら思案していたが、用は済んだとばかりに、くるっと後ろを見せて立ち去ろうとする。
 遠ざかる足音を耳にし、羅彩女は痛みをこらえ、那二零に手をかけながら起き上がると。
「待ちな」
 と源龍を呼び止めようとするが、腹を蹴られ息がしづらく、そうなれば声も出ず。蚊が飛ぶような消え入りそうな声しか出せない。そうすうちに、源龍の背中は夜の闇の中に消えてゆく。
 くっ、と痛みをこらえて、鞍にしがみつき、ようやくにして愛馬に乗れば。那二零は主の意を察してか、ぱかぱかと蹄の音も控えめに歩き出し。
 源龍に追いつき、そのまま後を着いてゆく。
 なんだ、と後ろを振り向いた源龍は、那二零が羅彩女を乗せて後をつけてくるのを見て、少し驚いたようだが。やれやれと言いたげにため息をつくと、前を向いてとつとつと歩く。左手には、大事そうに剣を握っている。
「ねえ」
 腹の痛みもおさまりつつあり、どうにか、声も出せるようになった羅彩女は、
「そういえば、あんたの名前を聞いてなかったね」
 と言った。背中で聞いていた源龍は、それもそうだった、と思い、
「楚人、源龍」
 と簡単に名乗った。
「楚の人間だったの」
「ああ、まあな。そういうお前は、どこの生まれなんだ」
「長城の向こう。父が匈奴で、母は中原(中国中央部)の生まれってことしか知らない。まあ、匈奴の血を引いてるって思えばいいさ」
「その馬も、匈奴の馬か」
「ああ、いい馬だろう。那二零っていうのさ」
「そうか。……いい馬だな」
 羅彩女は声が出せるようになった途端に、やけに饒舌になってよく喋る。それにつられて、元来口数の少ない源龍もよく喋る。
「わかる?」
 那二零を褒められ、羅彩女はご機嫌だ。子分どもが殺された恨みもあるはずだが、江湖で盗賊稼業を働いていて、覚悟はしていたので、そんなに湿っぽい恨みは抱いていないようだ。
「ところで」
「なんだ」
「左手に持っている、その剣は?」
「……」
 源龍無言。こればかりは、話したくなさそうだった。それを察して、
「ああ、話したくなけりゃ、いいよ」
 とさらりと話題を変えた。どこに行くんだ、と。
「徐州」
「里帰り?」
 徐州には楚の都がある。源龍は楚人だから、てっきりそう思っていたが。「違う」とこたえる。
「じゃなんだい」
「漢軍に加わる」
「ええっ」
 漢軍、劉邦の軍勢は徐州に向かっている。攻め落とすために。ということを、思い出す。まあ、生まれ故郷を攻めるなんて、このご時勢ではよくあることだ。と思っていたが。源龍はまた振り向き、羅彩女をひと目見て、それからぽつりと言った。
「剣士として、項羽と戦うためにだ」
「……」
 思わぬ言葉に羅彩女の口は、半開きのまま、止まった。こいつ、本気で言っているのか、と開いた口がふさがらない。
 覇王を称す項羽の強さは羅彩女も知っている。いや、大陸の人間ならば誰でも知っている。項羽は今、斉の国を攻めて都を留守にしているが、漢軍に攻められれば黙ってはいまい。なら戦う機会はあろう、が。項羽を相手に、剣士として戦うなど、正気の沙汰ではない、狂気の沙汰だ。
「だから、俺について来ると、死ぬぞ」
 じっと聞いていた羅彩女だが、ふん、と大きく息を吐き鳴らす。それから、腹がずきりと痛み、顔をしかめてしまう。だが、すぐに気を取り直し、那二零の馬上から突き刺すように、気を吐くように、源龍に言った。
「面白いじゃない。あんたがどう項羽と戦い、殺されるか、見届けてやるよ」
 それを聞いて、源龍はふっと笑って、前を向き歩く。それから、振り返りもしなかった。
 やがて、空が白みはじめて、あっと羅彩女は声を上げる。なにごとだと、源龍が背中で聞けば。それは他愛もないもので、
「軟鞭忘れちゃったよ、もう」
 と羅彩女は、自分の迂闊さに頬を膨らまし、ぷりぷり怒っていた。

scene3 赤鹿毛の女 了
scene4 争乱の都 に続く

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争乱の都・1

 さて源龍が羅彩女と那二零と出会って、徐州へ目指しているころ。貴志は主の張良とまみえて、自分が遭遇したことを語った。
 あれから馬を飛ばし、徐州へと向かう漢軍に追いついて、合流し張良と会った。そのとき軍勢は征旅の疲れを癒すため、一時の休みを取っていた。
「張良様」
 貴志は主の名を呼んだ。どこか、気が重く沈んで、憂いを含んだ声色だった。漢の軍師、張良はその容姿、美しき婦女子のごとく、いわば美男子でたたずまいなどは、まるで春風軽やかに吹くがごとし。
 だが貴志には春風は吹かず、かえって冬の冷たい風が吹き付けるようだった。
 なぜか。
「そちは、夢でも見たのであろう」
 と、語ったことを一蹴されてしまったからだった。
「しかし……」
「もうよい、下がれ。そちは疲れておるのだ、しばし休め」
 これはほんとうのことです、と食い下がろうとしたが、にべもなく幕舎を追い出されてしまった。
 屍魔など、なにを言うのかと思えば。事の次第を語った後に出た、軍師のその冷たい言葉。世迷言であると、まったく信じてもらえず、話を聞いてもらえない。無理もないことである、誰しも実際に屍魔など見たことはないのだ。
「私に長く仕えてきた真面目な貴志が、突然何を言うのかと思えば……。この長き戦乱の中にあって、疲れが出てきたのであろうか。となれば、彼をこれからも使い続けることは、ちと考えものじゃのう」
 ふう、と哀れそうにため息をつく。迷信深い時代ではあったが、張良はそんなおかしなことは信じていなかった。そういうものは、目の錯覚や何らかの思い違い思い込みに過ぎない、と非常に達観した、冷めた認識だった。
 それよりも、劉邦のために働かねばならない。おかしなことを言うおかしな部下の密偵に、構ってはいられないのだ。
 張良は韓人である。貴志もまた韓人。秦に滅ぼされた祖国の復興のため、血を吐く思いで生きてきた。
 その秦が滅び祖国、韓は復興した。それまでの苦難を思うと、喜びは並大抵の大きさではない。が、その喜びは長く続かなかった。
 あろうことか、韓王は項羽のお気に召さなかったか、殺されてしまった。張良や貴志の怒り、それはそれは、喜びが大きかった分怒りと哀しみ、そして復讐心も大きかった。
 張良は劉邦の軍師として、貴志は張良配下の、漢の密偵としてふたたび戦うことになった。
 そんな貴志だったが、出立の直前、張良からお暇をたまわった。つまり、解雇である。今までよく働いたと、いくらかの褒美もあり。添えられた書簡には、君は疲れているようだ、じっくりと休んで心身ともに落ち着けたがいい、というようなことが書かれていたが。これは言外に、貴志が屍魔の話をしたことを怪しみ、これでは密偵として使うことは出来ない、ということだった。
 それに貴志が、ひどくがっかりしたのは言うまでもない。
 今まで張良の部下として、漢の密偵としてしか生きてこず。それ以外の生き方など、とうていすぐに思い浮かぶものではない。これからどうしようと、漢の軍勢を見送りながら呆然とするしかなかった。
 が、いつまでもこうしてはいられない。とりあえず、着いてゆくだけ着いてゆきながら、これからのことを考えよう、と思った。
 そこで夜になると、夜陰に乗じて持ち前の武術をもって、そっと漢兵のひとりを気絶させ。退職金の褒美の一部と引き換えにその軍装を頂き、漢軍の下級兵の部隊に紛れ込み、居候を決め込んでしまった。幸い密偵だったので下級兵は彼の顔を知らなかったが、用心してほんとうの名は隠し、回七(カイシチ)という思いつきの偽名を使った。
 徐州までの道のり、無論戦はあった。その戦は連戦連勝。飛ぶ鳥を落とす勢いであり。それにともない、味方も増えた。軍勢の意気も上がり、向かうところ敵無し。
 張良に解雇され行き場なく、やむなく漢軍に紛れ込んだ回七こと貴志であったが、さすがにこの時は胸のすく思いがした。
 だが、この連戦連勝を、変に気味悪がっていた者がいる。
 韓信という者である。彼ははじめ項羽に仕えていたが、厚遇を得られず、劉邦に鞍替えしたのだ。それは成功で、最初こそいざこざもあったが、彼を認めてくれるものもあり、国士無双と称され、ついには大将軍に抜擢されて、仕官間もない身ながら諸将を取りまとめて指揮する立場にまで昇った。
 そしてその立場での仕事を見事にこなしていた。
 その韓信がである。
「これで、ほんとうに良いのだろうか」
 と、何か悩んでいるようだった。劉邦はというと、
「いいじゃないか」
 と単純に喜んでいる風があった。
 軍師の張良は韓信と同意見のようで、劉邦のかたわらにいながら、何度か韓信と目配せしあったこともあった。劉邦という人物は、それこそはじめは一介の侠客であったが、天然的な人徳を備えて人の意見をよく聞くこともあり、またなにより愛嬌と頼もしさもあわせ持ち、我知らず彼を慕うものは多く。いつの間にか多くの人にかつがれて、軍勢を率いて楚軍に加わり、ついには項羽と天下を二分するところまで来てしまった。が、惜しいかな、戦に関する勘どころはなきに等しく、一軍の将としての素質などとても持ち合わせていなかった。ために、今の連戦連勝を素直に喜んでいた。
 ともあれ、出征当初は三万だった。司令官たちは懸命に策を講じ、戦に勝ち、それから味方も増えていき、気がつけば五十万を超えた。よほど項羽は不人気だったのだろうというのが、これでよくわかった。が、漢軍の司令官たちは、そのために、敵と戦うよりも増えすぎた味方を制御する方に心血を注ぐこととなる。
 味方とはいえ急に出来上がったもので、人員の掌握も間に合わず、不確定要素も多く。いわば坂を転げ落ちる雪だるまのようで、壁にぶつかった途端に、ぱっと散るようにして、瓦解するともしれなかった。そこで、一切の略奪行為を禁じ、破れば死罪という風に軍律を厳しくして、気を引き締めさせ。そして戦に勝つことで意気を上げたうえで、楚の都、徐州の彭城をひたすら目指させるという具体的な目標を与えることで軍勢をまとめようとした。
 それは一応の成功を見、敵を撃退し、地元の民百姓から歓迎されてはいた。
 そんな時である。韓信に会いたい、という者があるという。それは源龍という、楚の生まれの、江湖の流れ者の剣士であるといい。韓信をよく知っているという。おまけに、やけに具合の良い馬と、やけにきれいな女を一緒に連れているという。
 報告を聞いた途端。
(源龍。あ、あいつか!)
 韓信の脳裏に、項羽のもとにいたころのことが思い出された。
(あのむっつり屋、いつの間にかいなくなっていたのが、馬と女連れで急に現れたとは、これはいかに)
 まあ、いい。とりあえず会ってみよう、と会ってみた。
 この時軍勢は、ある城をおさえ、韓信はその城に住む富豪の邸宅を使っていた。使いのものは源龍の薄汚さを少しいぶかしみながら案内し、韓信のいる間へと通した。
 馬と女はというと、どんなものか興味がないわけでもないが、馬はまさか邸宅に入れるわけにもいかないし、女は女で、それを近づければ大将が女遊びにうつつを抜かしている、などとあらぬ誤解を招きかねなかったので、やはりこれも入れられず。外で控えさせている。
「やあ、やっぱりお前だったのか」
「ああ、久しぶりだな。韓信さん」
 ふたりは顔を合わす途端、互いに笑いあって再会を喜んでいるようだった。そこへ、
「控えろ!」
 という怒号が飛んだ。

争乱の都・2

「畏れ多くも漢の大将軍の御前である。本来ならお前のような薄汚い浪人風情など、どうしてあいまみえることなど出来よう。それを、ご厚情から会ってくださったにもかかわらず、礼儀作法もないばかりか、こともあろうに……」
 間の一角で控えていた部下が、わなわなと震えながらなにやら口ごもっていた。源龍が礼を欠くうえに、大将軍を韓信さんと呼ばわったことを責めているようだが。あやうく部下はその「韓信さん」、という呼び方を言いそうになり、慌てて言葉をさえぎった、という次第。まさか部下が上官をなになにさんと、口にするわけにはいかない。
「あっ」
 と気まずそうに源龍は跪き、頭を下げた。そうそう、それでよいのじゃ、と言いたげに部下は源龍を見下ろし、韓信は苦笑している。懐かしい相手を前に、つい自分も楚の一兵士であったころの昔が出てしまった。そのため、源龍もつい、一兵士のままで話しかけてしまったのだろう、と心で相手に詫びていた。
 本当なら自分も一兵士にかえっていたかったが、いまや大将軍という立場、しかも軍律を厳しくしている。まあよいまあよい、と軽くいえないのがなんともむずがゆいような気がする。
 部下はぎろりと、源龍を見下している。じっと構えてはいるが、内心はかんかんのようだ。これにも苦笑し、やむなく韓信は、
「昔のよしみで会うことにしたが、そう礼を欠かれてはな。お引取り願おう」
 とにべもなく、追い返そうとする。源龍は目を点にして、韓信を見ていたが、その片目を一瞬だけ閉じて、なにやら目で意思表示しているようだ。
(今回は是非もない。また別の機会でな)
 と韓信は心でそう語りかけていた。幸いなるかな、源龍もそれを察し、今度は礼儀正しく使いのものに案内されて、邸宅を出て行った。
(やれやれ)
 なんとも難しいものだ、と苦笑しきりの韓信は源龍を見送ると、軍務にとりかかった。
 で、邸宅を出て、那二零と一緒に源龍を待っていた羅彩女。源龍が出てくるのが思ったよりも早く、しかもなにやら気まずそうな顔をしているのを見て、
「追い返されたのかい」
 とにやにやしながら言う。源龍は怒るどころか、気まずそうに、
「うん」
 と頷く。
 その素直さに羅彩女はかえって拍子抜けし、あやうくずっこけそうになってしまった。
 源龍と羅彩女に、那二零。このふたりと一頭は、あれからも行動をともにし、ここまでやって来た。
 その道のりの途中で、俺は韓信を知っている、と大見得を切っていたのに、こうもあっさりと追い返されて、気落ちまでしているというのはどうであろう。
「ほらよ」
 と、ふた振りの剣を源龍に返す羅彩女。知り合いとはいえ、漢の大将軍に会うのだ、無論帯剣はできないので、預けていたものだ。
「落ち込んでも仕方ないやね。しお(機)を見て出直すしかないんじゃない」
「そうだな。そうするか」
 ふたりと一頭は、収穫無しの寂しさを背負って、とぼとぼと城から出て行った。
 そもそも、項羽と戦う夢というか、漠然とした夢妄を描きながら江湖をひとりさまよい歩いていた源龍である、剣しかない源龍である。礼儀がそなわっているわけもなかったし、相手の立場を慮る思考もなかった、所詮下っ端兵士であった。ということを、この時いやというほど痛感してしまった。
 それも、相手が韓信だからだった。他のものなら、こうはならなかったろう。
 自分の剣を腰に佩いて、背中に七星剣を負う。
 歩きながら時折、剣の柄を指でとんとんと軽く叩く。その手ごたえを感じて、あの時の韓信の目配せを思う。
(別の機会。そうだな、戦の真っ只中に飛び込んで、俺の働きを見せ付ければよいのだな。いや、なんでそれをもっと早く思いつかなかったのか)
 源龍は自分の行き当たりばったりなやりかたを、今さらのように気付いて、忸怩たる思いに胸を詰まらせ、なんだか今日はやけに沈んで。
 その様子に、羅彩女はちょっと、かえって不気味な怖さを感じていた。それもそうだった、
(この剣は、韓信さんが俺にくれたものだ。韓信さんは、楚軍でただひとり、俺を認めてくれた人だ)
 楚軍時代、源龍は勝ち気な性格が災いして、誰とも馬が合わなかった。だが当時一緒に楚軍にいた韓信だけは、源龍を認めてくれていた。さもあろう、韓信は韓信で、周りから、「股夫」(こふ)と呼ばれてけなされていたのだった。
 楚軍に加わる前の浪人時代、あぶれ者でそのくせ剣だけはしっかりと腰に佩いていた。それを見たならず者に「その剣で俺を斬ってみろ。それが出来なければ、俺の股をくぐれ」と挑発されたが、挑発に乗らずに、股をくぐった。
 以来、臆病者という悪口の意味で「股夫」と不名誉なあだ名がついてしまった。もちろんそれでは人に好かれるどころか、馬鹿にされ嫌われてしまうことが多い。
 要するに、嫌われ者同士で同類相憐れむ、という感情があったのだろうか。妙に、韓信と源龍は気が合った。仲間たちから外れて、ふたりで酒を酌み交わすこともしょっちゅうだった。
 そんな折、源龍はある戦で剣を叩き折られてしまった。それを見た韓信は、
「俺の剣をやろう。股夫が使っていた剣だから、股夫剣だ」
 と冗談交じりで言っていた。
「他は知らず、剣にかけては、お前さんが断然上だからな。この剣も、良き主のもとで、よく働かせればそれ以上の幸いはなかろう」
 と、からから笑って、源龍に剣をわたした。
 そう、源龍の剣は、韓信からもらったものなのだ。なかなかよく斬れる剣で、名剣といっても差し支えなかった。なるほど、あぶれ者の浪人がこんないい剣を持っていれば、難癖をつける輩が出るのもうなずけるというものだ。
 ともあれ、おかげで自信を益々つけて、それにともない剣技も磨きがかかった。今の源龍があるのは、韓信のおかげであると言ってもいい。
 それからふたりは別々の部隊に配属されて、以来音沙汰がなかったものの。剣をくれた恩は忘れたことはなかった。
 その韓信が劉邦に仕え、漢の大将軍にまでなった、と聞いたときは驚きもしたが。また項羽と戦う機会が得られるかもしれないという望みと、韓信への恩返しをしたい、というのもあって、漢軍に加わろうとしていたのだった。
 が、さて、まっとうなやり方が出来なかった源龍。良い機を得て、韓信と一緒になれるかどうか。すこし後ろでは、羅彩女が那二零に乗ってぱかぱかと着いて、さあどうしようか、と考えながら歩いている源龍の背中を笑っていた。

争乱の都・3

 機というものは、望めど望めど、ないときはなくて。
 漢軍はあれからこれと言った戦もなく、とうとう徐州の彭城まで来てしまった。彭城はというと、楚王項羽が反乱軍を鎮圧するために留守にしていたため、五十万という大軍の前に、あっけなく門を開いた。
 軍中にあった貴志は、そのあっけなさに驚きもしたが、敵の本拠地を占領できたということに、素直に喜んだ。他の兵も喜んでいた。
 それは、貴志とはまた違った理由からだった。
 楚の都だけあり、彭城は大きく豪華絢爛。人も物資も地方の都市とは桁違いに多い。それは、血気にはやった兵たちにとって、略奪という楽しみを与えることとなり。
 途端に、漢軍五十万は暴徒と化し、思い思いに略奪を楽しみ。かつて項羽率いる楚軍が、秦の都咸陽でそうしたように、漢軍もまた、同じように破壊に猛り狂った。あちこちで火が放たれ、建物は壊され、市民はたちどころに虐殺され、金銀財宝は奪われ、女は犯され、そこには道徳も倫理観もない、ただ狂い、欲望の爆発みがあった。それは地獄絵図であった。
「……」
 機を得られず、成り行きで彭城まで来てしまった源龍と、羅彩女はこの光景を唖然とながめ、金縛りにあったように身体が動かなかった。
 今まで毅然と進軍していた「軍隊」の、その変わりよう。
 目ざとい者が、羅彩女を見かけるや、毒牙にかけようとわっと襲い掛かってくる。いかに武芸優れたふたりといえども、五十万の暴徒の前には無力であった。
 ここまで来る途中で手に入れた槍を振り回し、暴徒を追い払うも、次から次へときりがない。源龍も剣で追い払うものの、やはり同じできりがない。忌々しく舌打ちし、
「逃げるぞ!」
 と逃げるしかなかった。途中までしつこく追ってくるものもあったが、
「おい、無理に追いかけなくても、他にもいっぱいあるぞ!」
 と他の兵が呼び止めると、それらは呼びかけに応じ源龍と羅彩女をあきらめ、他の獲物を求めていった。
「やめろ、やめるんだっ!」
 貴志は暴徒と化した戦友たちをいさめ、略奪暴行をやめさせようとするが、聞く耳持たずで一向にやめない。ばかりか、やめさせようとする貴志を忌々しそうに睨みつけ。
「なんじゃい、聖人君子ぶりやがって」
 とかえって貴志までも手にかけようとする。これにはやむなく、拳法をもって防ぎ、時には暴れまわる戦友たちを止めることもあったが、それは火に油をそそぐようなものであった。せっかくの楽しみを貴志の行為に邪魔され、いよいよ怒りも込み上げて。数に物を言わせ、数人で一斉に襲い掛かってくる。
 これは貴志もたまらず、後ろ髪を引かれる思いで走って逃げるしかなかった。
 逃げる中で目に飛び込む、悲惨な光景。折り重なる屍の中、死せる母親の腕の中で息絶えた嬰児もあった。
(ああ、なんということだ)
 目も当てられなかった。知らずに涙が溢れてくる。
 遮二無二に駆けて、彭城から遠く離れたところまで逃げた。背中に打ち付けられる阿鼻叫喚が小さくなって、そこでようやく足を止め。地に突っ伏して、泣いた。とめどもなく涙が溢れ、貴志はひたすら泣いた。
「こんなことのために、俺たちは今まで戦ってきたんじゃない」
 もう、それしか言葉はうかばかなった。何のために戦ってきたのであろう。秦の暴政を憎み、故国の復興とともに、この地上に安楽をもたらさんと、戦ってきたのではなかったか。
 それが、同じことの繰り返しとは。
 張良は何を考えて、漢軍の略奪を許したのであろう。むしろ解雇されてよかったのではないか。様々な思いが涙とともに溢れるが、いやそれよりも、今は泣くことしかできなかった。
 韓信と張良といった劉邦の心ある臣たちとて、無論この暴挙をいさめた。しかし、
「なんで天恵を捨てられようぞ」
 とこの暴挙をあろうことか劉邦自身が楽しんでいた。今まで我慢に我慢を重ねて、禁欲的な進軍をもよおしてきたのは、まさに今日のためではないか、と。彭城はそのための天恵ではないか、と。
 戦といえば、勝てば好き放題奪える。という戦争観。
(こういうことをしても良いのだ)
 勝つことによって、そういう気持ちが芽生え。支配される。それに抗えるのは、この五十万の中の、ごくわずかであった。
 だがどうすることも出来ず、それぞれ奥に引き篭もって熱の冷めるのを待つしかなかった。
(これは、やばいぞ)
 韓信は気が気でない。彭城を獲ったといっても、こう好き放題ばかりしていては。この楚の都は、項羽の主力が留守だったという好条件のもとで獲れた、ということをほとんどの者が失念している。これでもし万一のときの守りに備えられるだろうか。
「否、否。項羽が取って返せばたちまちのうちに崩れ去る」
 五十万といえど、それが烏合の衆であれば意味がない。だからこそ、規律を厳しくし「軍隊」としての体裁を整えようとしたのに。ここに来て、一挙にご破算になってしまった。進軍中に感じていた違和感が、現実のものとなってしまった。
「こうなれば是非もない。我らだけでも、城の守りを固め、万一に備えよ」
 やむなく韓信は直属の部下たちにそう告げた。さすが彼らは他の兵たちに混ざって略奪暴行はせず、韓信の命をやきもきしながら待っていた。
(源龍はいまなにしてる。こういうときこそ、あいつがいてくれれば)
 と思ったものの、いないものを当てにしても仕方がなく。自分のすることに専念するしかなかった。
 その、地獄絵図の繰り広げられる彭城を遠くから見守る影が三つ。
 夜も更けるというのに、城内の乱痴気騒ぎは収まらず、ところどころに放たれた火が闇を裂いて空に広がり、薄墨色の雲さえも照らし出す。月は下界の様を見たくないのか、雲に隠れてしまっていた。
「ふん」
 ひとり、男が吐くように言う。
「華山で地獄を見、下界でも地獄を見。地獄ばかりだ」
 と忌々しそうに、奥歯をぎっと噛みしめる。
 そばにいた白頭巾に白い衣の者は、そっぽを向いて無言のまま。またそのそばに、紫の衣の少女が、腰に鞘を下げて、呆けて彭城を眺めている。
 香澄だった。その黒い瞳を通じて、何を思うのか。

争乱の都・4

 男は香澄をちらりと一瞥し、ふう、と男、水朝優はため息をつく。
(まったく、よく出来たものだ)
 かつて秦に仕え、始皇帝の命令により不老不死の妙薬を捜し求めた。いったいどのくらい、西へ西へと旅をしたことか。行けども行けども、果てなどなく。永遠にこの大地が続くかと思われたこともあった。土地が違えば人も違い、その文明・文化の様まで違って。まこと秦と陸続きなのか、知らないうちに異次元の国へ飛んでしまったのではないかと、と何度驚かされたことであろうか。
 そんな中で、月氏の国(インド)というところで、『活死自在経』を見つけてしまった。そう、見つけてしまったのだ。
 すべては、そこから始まった。
(俺は、地獄をつくるために経を見つけたのではない)
 と思うと、どうしようもなく、忸怩たる思いに駆られる。まだ若く、純粋な忠誠心より経を見つけた。それが、現実はどうだ。まんまと趙高にそそのかされ、経を研鑽し、屍魔をつくり。その屍魔をもって、この地上にさらなる地獄をつくりあげよとしている。
(俺は、どうすればよい)
 彭城の阿鼻叫喚を遠くから眺め、迷いにとらわれているようだった。おそらく項羽は舞い戻ってくるだろう、そのどさくさに紛れて香澄を近づける。剣はまたの機会に、項羽に無事近づけられたら、探させるという手もある。
 あの時、香澄の様子がおかしくなって咄嗟に笛を吹いて引き下がらせて、華山へ急いで帰った。まだ未完全なところがあったのだ。華山を下りてここへ来る途中、あの場所に立ち寄り探したが、見つからなかった。おそらく、源龍と貴志のいずれかが持ってるのかもしれない。
 正直、趙高の命令など正直に聞く気が起きない。何度香澄を屍に戻そうかと考えたが、その顔を見るたびに、決意が鈍ってしまう。己の死は恐れぬが、どうも香澄に愛着を持ってしまったようだった。水朝優が恐れるとすれば、その、香澄への愛着だった。
 気がつけば、白頭巾、麻離夷が水朝優を心配そうに眺めていて。心配ない、と水朝優は気を引き締めて、その碧い瞳に頷いた。
 その様子を見た香澄はふたりに、にこりと微笑む。それに微笑み返す麻離夷と水朝優。ふたりの脳裏に、香澄を屍魔として蘇らせたときの記憶が閃く。人が死ぬなど日常的なこと、素材を見つけるのはたやすい。しかし、香澄のように生前の美貌を残したものなどは、やはり少ない。どこそこで若い娘が死んだと聞けばすぐに赴き、墓をあばいては失望する、ということを何度繰り返したことか。その果てにようやく、見つけたのが、香澄であった。
 ところは旧呉の国のさる小さな村であった。どのような病で亡くなったのか、傷ひとつなく、眠るように死んでいた。それを華山に持ち帰り、経力をもって、屍魔として蘇らせた。よくできたものだった、なにせ、
「わたしは、香澄……」
 と、生前の自分の名前を覚えていたのだから。最初は本当に、そのまま生き返ったのかとさえ思えたほどだった。しかしそれ以外のことは覚えておらず、出来具合に不安を持ちながらも、美しき刺客として仕込んだ。
 美しい若い娘の屍を求めたのは、趙高の発案からだった。
「若く美しい娘の屍魔をつくり、いにしえの西施(せいし)のように項羽か劉邦に近づけるのだ」
 いまよりさかのぼることおよそ二百年前、春秋戦国の時代のころ、江南の呉と越の国は興亡を賭けた激しい戦いを繰り広げていた。が、最後は越が呉を制した。越は呉を弱体化させるため、様々な策を施したが、そのひとつが、美女を呉王に差し出し骨抜きにするというものであった。
 趙高もまた同じように、美しき屍魔をもって、項羽か劉邦のいずれかを骨抜きにしてしまうつもりだったが、項羽がその勢力を強め覇王と号したのを知ると、香澄は項羽に近づけることとなった。
 そして、七星剣が与えられた。剣身に北斗七星の配列で、紫の珠が埋め込まれた宝剣だ。豪勇を誇る項羽である、ただ美しいというだけでは振り向きもされまい、と。無論武芸もそれに相応しいもので、それについては、虎を倒した源龍と貴志のふたりを手こずらせたことで実証が示された。出来具合を見るために、蘇った香澄をともなって旅をし、ゆきずりの武芸者や武人を七星剣の餌食にしたものだった。
 さて、七星剣は香澄の腰にぶら下がる鞘に戻る日があるかどうか。
 それよりも、水朝優も麻離夷も、阿鼻叫喚の彭城を遠く眺め、身動きもせず。香澄もじっと静かにふたりのそばで、たたずんで。そのまま時がすぎてゆくかと思われた。

scene4 争乱の都 了
scene5 項王来-xiang wang lai に続く

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項王来-xiang wang lai・1

 彭城落つ!
 反乱鎮圧のため斉に赴いていた項羽はその急報を聞き、怒髪天を突くばかりであった。
「斉など捨て置け。これより全軍急ぎ彭城へ向かう!」
 身の丈八丈(184センチ)の大柄な身体を揺らし。若き覇王は裂帛の気合をこめてそう叫ぶと、葦毛の愛馬、騅(すい)にまたがり、大薙刀をかつぎ、疾風怒濤のごとく、軍の先頭を切って駆け出した。
 従うもの、三万。
 敵は五十万の大軍であるという、が項羽には数など眼中になかった。
 そうとは知らない漢の劉邦軍は、占領から数日経った今でも彭城をおもちゃにして、享楽にふけり。項羽が怒涛のごとく迫り来るのを知らない、いやもう項羽など眼中にないかのようであった。
 いかんせん、五十万という大軍であることが、彼らに油断をさせていた。
 城外では溢れた軍勢が野営をし、仲間が城内から持ち帰った「戦利品」でもっておおいに楽しみにふけっていた。
 さらに城外より遠くで、貴志が目を真っ赤にした涙目で呆けたように一日一日を過ごして、彭城の周辺を、うろうろうろうろと、まるで魂のない屍魔のようにうろついていた。
 そこへ、ぽんと叩かれる肩。
 はっとして振り向けば、いつぞやの剣士、源龍。
「なにをしている」
 と、その顔の精気のなさにやや驚きながら話しかける。
「源龍。いたのか」
「いたのか、とはご挨拶だな。それより……」
 かつて会ったときは平服であったのが、今貴志は漢軍の軍装を身につけ、歴とした漢軍軍人の呈をなしていた。
「お前漢軍の人間だったのか」
「いや、違う。この姿はわけあってこうしているだけだ」
「ふうん」
 素っ気ない源龍。貴志が何者かどうかなど、興味ない。貴志も、自分のことや源龍がどうしてたかなど、語り合う気が起きなかった。久しぶりの再会だというのに、この冷めよう。そばで見ていた羅彩女は、那二零の手綱を引いて、ぽかんとふたりをながめ。
「ねえ源龍、誰?」
 と聞いた。その声を聞き、
「あ、お連れでござるか。それがし、姓は貴、名は志。貴志と申す」
 と源龍に連れがいるのに気付いて、慌てて気を持ち直し慇懃に挨拶をする。その馬鹿丁寧っぷりに、羅彩女は、ちょっと、調子が狂う。盗賊の女首領をやってきて、こうした堅苦しいのは苦手だった。
「あ、ああ、あたしは羅彩女。よろしく……」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 貴志は羅彩女を見て、その容姿にも驚きを禁じえない。まさか女連れとは、なかなかどうして、源龍も隅に置けないものだ、と。無論、源龍は貴志が何か勘違いをしていることに気付いてはいたが、いちいち言い訳するようなことはせず、想像に任せた。
 しかし、羅彩女が手綱を引く赤鹿毛の馬には、一番驚かされたようだ。あらぬ想像をめぐらすも、
(なんという素晴らしい馬だ)
 と赤鹿毛、那二零の存在がぱっと打ち消してしまう。羅彩女も羅彩女で、見れば色こそ赤だが、男物の服を来て、どう見ても堅気ではない。
 いったいどこでどうして知り合ったのであろうか。
 さらに、貴志の目は源龍が背に負う剣にそそがれた。
「あ、その剣は」
「あいつのだよ」
「……」
 あいつのだよ、という源龍の言葉に、我知らず固まる貴志。
 香澄と剣を交えたときのことが、ありありと脳裏に蘇る。
「まだ会えないままか」
「まあな」
 源龍は香澄のことを思い出し、無口になる。彭城の阿鼻叫喚すら、意識の外だ。まさか、少し離れたところの林で、香澄が三人と一頭を眺めているなど知らず。
 澄みきった黒い瞳に、源龍と貴志が映し出される。香澄はうまく気配を殺し、三人と一頭は気付く様子もなかった。
(これは、まさに天佑!)
 香澄のそばで、水朝優が気が昂ぶるのを抑えて気配を必死に殺している。まさかここ彭城の城外で、あのときのふたりに出会えようとは。それからさらに離れたところでは、武術の出来ない麻離夷が気配をさとられないように香澄と水朝優から離れて、木の陰に隠れて、碧い瞳で様子をうかがっていた。
 水朝優が香澄に目配せする。いくか、と。それを見て、うんと頷く香澄。
「よし、あいつらは無理にしとめなくてもいいから、七星剣を奪い返せ」
 水朝優の言葉が終わるやいなや、香澄は風に吹かれるかのように、すう、と進み出る。と同時に、三人と一頭は殺気を感じてその方を振り向けば。
「香澄!」
 同時に叫ぶ源龍と貴志。
 あの時手合わせした少女が突然現れて、こちらに向かってきている。紫の衣が風に遊ぶ花のように、揺れられている。羅彩女は突然現れた香澄に驚きもしたが、ふたりが少女の名らしきものを叫んだのにはもっと驚いた。
 知っているのか、どころか強敵を前にしたように声に戦慄が含まれていて。用心して槍を構える。
 貴志は香澄の出現と同時にさっと剣を抜き構える。しかし源龍はというと、背中の七星剣を抜くや、
「落し物を取り返しに来たか!」
 と香澄にぶんと投げつけた。
 香澄は進みながら、その進み方はまるで風に乗っているかのように軽やかに、手を伸ばす。剣は切っ先を香澄に向けている、それも凄い勢いでだ。このままでは顔面に直撃するかと思われ。遠くで眺めていた麻離夷は顔を真っ青にして、
「あっ!」
 と叫んでしまった。無論それと同時に気配も三人と一頭にさとられてしまった。
(仲間がいるのか)
 またあの時みたいに、屍魔が出るか。とさすがに源龍と貴志は身を硬くした。そうするうちにも七星剣は香澄めがけて飛び、もう顔面に突き刺さるかと思われた。が、ひょいと軽く身をそらすと、剣は香澄の左頬から少しのところを飛び抜けようとしたところを、ぱしっとその右手に掴まれる。
「おお、見事だ!」
 感心するあまり、水朝優まで声を出し、気配をさらけ出してしまった。麻離夷が気配をさらけ出したとき、「もう」と苦く思ったのに。
「誰だ、出て来い!」
 香澄が剣を掴むとともに、己の剣、股夫剣をもって攻めに出ようと思っていた源龍だが、香澄の他に誰かいるのがわかって、股夫剣を構え、その誰かに大喝すると。
「仕方がねえな」
 と水朝優が姿を現し、後ろを向いて麻離夷にも出て来いと手で合図する。
 水朝優にうながされ、麻離夷がやむなく姿を現したとき、三人はその容姿に目を見張り、一時釘付けになってしまった。ことに貴志などは、
(なんと美しい)
 と、顔が真っ赤だ。

項王来-xiang wang lai・2

 麻離夷は頭巾を深く被っていたが、にわかに吹く強風にあおられ頭巾がずれる。肌白く整った顔立ちをし、ことに彫り深く鼻が高く、碧い瞳に、金の髪。その容姿には、匈奴の血を引く羅彩女ですら、息を呑んでしまっうほどだった。
 肌が白いのはともかくとして、眼は碧く髪は金など、見たこともない。さあこれから一番やるか、と身構えていた源龍でさえ、呆気にとられてしまい。動きを止める。それに合わせるように、香澄も七星剣を握ったまま動かず。水朝優と麻離夷をじっと眺めている。
 水朝優はふてぶてしく、この様子を眺めていた。七星剣が無事戻り、安心もし、気持ちはいよいよ大きくなる。
 麻離夷は慌てて頭巾を深く被る。自分の容姿を人に見せるのがいやらしい。
(なんだ、こいつら)
 この間のような屍魔ではないらしいが、警戒を怠らず、三人はじっと構えている。それを見て、水朝優は、
「ゆけ、香澄」
 とけしかければ、香澄はうんと頷き、三人に向かって攻め掛けて来るではないか。
「いきなりかよ!」
 源龍も貴志も羅彩女も、わけがわからないながらも、自分たちに向かう香澄に構える。そこからだっと飛び出すは、源龍。疾風のように駆け、股夫剣を握りしめ振るい。剣が風を切り、唸りを上げる。
 香澄の瞳が股夫剣を映し出すとともに、七星剣も風を切り唸りを上げ。剣と剣が激突し、火花が散り。その火花の下、源龍、香澄は互いの瞳に相手を映し出し駆けた勢いまでぶつけ合って、鍔迫り合いに興じたかと思うと、さっと繰り出される源龍の強烈な右ひざ蹴り。
 香澄は素早く察して、さっと後ろへ飛び退くや、すかさず刺突を送りその右膝を突き刺そうとする。ちぇ、と舌打ちし右膝を下げ刺突をかわすと、七星剣の切っ先をかろうじて身をひるがえしてかわしざまに、ぶうん、と股夫剣を勢いよく振るい横なぎに斬りつける。が、紫の衣を風に遊ばせながらなんなくかわされる。
 源龍もさるもの、剣風止ませることなく立て続けに股夫剣を繰り出し、香澄に剣をかまえ直すいとまを与えず。勢いを増して、その顔面に刺突を見舞う。が香澄は剣先をじっと凝視すると、そのまま剣先を引き連れるように、すう、ともろ手を広げて、まるで風に乗ったかのように軽やかに後ろへ下がってゆく。
 小癪な真似を、と源龍は歯軋りして、その顔面に剣を突き立てんとさらに追いすがる。
 それから、香澄は何を思ったか急に動きを止め、顔面向かう刺突をじっと凝視したかと思えば。両脚を縦に広げた状態で地に伏せば、顔面に迫る股夫剣は頭上をかすめてゆき。そのついでのように、さっと源龍の腹めがけて刺突を送る。
 急に香澄の顔が下にさがった、と思ったら腹めがけて走る剣光。源龍ははっとして跳躍し、その頭上を飛び越える。それを追う七星剣。両脚を縦に広げて地に伏したままで、香澄は咄嗟に腕を上げて剣を繰り出す。
 源龍は宙を飛びながらも、自分に追いすがるような一閃を股夫剣で払いのけて、着地。
 その瞬間を見計らって香澄は素早い立ち上がり、前へすぅと進み出て、体勢を整える前の源龍の懐に飛び込み。
 香澄の鼻先と源龍の鼻先が触れ合うほどに近くまで、顔を近づける。無論その動きの早さ尋常ならざり、それを見守る者たちは息をするのも忘れるほど、この戦いに見入っていた。
(なっ)
 香澄の意表を突く行動に気をくじかれたか、源龍の動きが一瞬止まる。その刹那、香澄が飛び退きざまに七星剣が一閃し、赤い血がぱっと飛んだ、ように見えた。
「ぁう、ぁ……」 
 貴志、羅彩女は声にならぬ声でうめく。香澄は源龍から離れ、その手に握る七星剣を、天を突かんがばかりに高々と掲げる。その剣身には、赤い血がこびりついていた。
 源龍は股夫剣を握り閉め、左の頬、前に香澄に斬られたのと同じところから、鮮血をしたたらせていた。血は頬を赤く染め、口元まで流れ落ち。それを舌で舐めてみれば、確かに血の味がした。
 香澄は剣を高くかざしたまま、氷のような冷たさを感じさせる瞳で、源龍をじっと見つめている。
(一度ならず、二度までも……)
 血のぬめりを口の中で感じ、源龍憤懣やるかたない。と同時に、この世に項羽の他に、こんなに強い者がいたのか、と狂喜を覚え。我知らず、笑みがこぼれ。股夫剣を握る手に、さらに力がこもる。
「ほお」
 水朝優はそれを見て感心し、ほくそ笑み。麻離夷は頬を血に染めながら笑う源龍を見て、引いて、口に手を当て後ずさりする。
 と、その時。
 ど、ど、ど。と轟く響き、地が揺れる。はっと、水朝優は響きの方へ振り向けば。あっ、と口を開けて、
「項羽!」
 と叫んだ。
 斉の反乱鎮圧から取って返した項羽軍三万が、彭城を奪還すべく舞い戻ってきたのだ。地を揺るがす馬蹄の響き、馬のいななき。もうもうと立ち込める砂煙に項羽軍の裂帛の気合が込められ、天まで届かんほどだ。
 源龍もその方を向き、歯を食いしばる。狂喜が全身を駆け巡る。
 だが貴志と羅彩女は違い、このままここにいては戦いに巻き込まれると、逃げ出そうとする。那二零は軍馬のいななきに呼応し、けたたましくいななく。それに急いでまたがり、
「源龍、逃げるよ!」
 と一喝するも、源龍は動かないどころか。
「俺にかまうな!」
 と大喝して返す。もう、と羅彩女は舌打ちし、
「勝手にしな」
 と那二零を駆ってさっさと逃げ出す。無論水朝優と麻離夷もここにとどまるわけにもいかず、麻離夷は懐から小さな笛を取り出し。ぴぃひょろろ、と吹けば香澄は笛の音に応じ、水朝優と麻離夷と一緒に逃げようとする。
(あの時の笛は、この人が吹いたのか)
 貴志は笛の音の正体を知って意外な思いがしたが、今は笛の音どころではない。
「おい、お前武芸出来るだろう。しばし力を合わせて、安全なところまで逃げよう」
 と水朝優。貴志はどうしようかと迷ったが、白頭巾の麻離夷に少し目をやると、うん、と頷き。水朝優と貴志は麻離夷と香澄を前後に挟んで、戦場となるこの場から離れてゆく。
 源龍は一人残された。頬の血が乾きつつあるのを感じながら、項羽軍三万に向かって。
「早く来い、早く来い」
 と股夫剣を握りしめ、楽しげにつぶやいていた。
 
項王来-xiang wang lai・3

 項王来たる!
 項王来たる!
 彭城は突然の項羽襲来にあって、一気に混乱を来たしていた。あろうことか、五十万の兵たちのほとんどが、項羽を恐れて右往左往、慌てて逃げ出す始末。
 野営の軍もまた混乱を来たし、幕舎を捨てて着の身着のまま、逃げ去ってゆく。後には虚しく幕舎は風に揺れて、風に乗って残された馬のさびしげないななきが響いた。それを耳にし、源龍は空の野営の陣所までゆくと、残された数頭の馬の中からよさそうな黒鹿毛の馬を見つけ、それに打ち跨れば。城門から漢軍が項羽軍を迎え撃つため、打って出る。その軍勢には「漢」の旗の他に、「韓」の旗も見受けられた。
 漢の大将軍、韓信の軍勢のようで。
「お、韓信さんもいくのか!」
 と馬を駆って韓信軍に合流しようとする。と、その時、
「蒐弐十!」(しゅうにじゅう)
 と呼ばわる声がした。なんだ、と思ったら、誰か逃げ遅れた者が、源龍の乗る黒鹿毛に向かって叫んでいる。軽装で武人らしからぬその様子は、どうも軍の馬飼いの者らしい。自分が面倒を見ていた馬に、誰か知らないものが乗って項羽軍に向かって突っ走っているのを見て、度肝を抜かれたらしい。が、項羽軍が迫ると馬どころではないと、すたこら逃げ去ってしまった。
「お前は蒐弐十というのか。よろしくな、蒐弐十」
 黒鹿毛はその走り力強く、後ろ足のふんばりも強く地を蹴りだし風を打ち砕いてゆき。そのいななきは腹にまで響き、空を揺るがせた。
(こいつはいい馬を見つけた!)
 良馬を得ることは武人のたしなみでもある。一応でも武人の源龍は、その良馬にめぐり合えたことにも喜びを見出し、股夫剣を掲げ韓信軍とともに項羽軍に向かった。
 とすると、後ろからけたたましい馬のいななきがし、激しい馬蹄の響きがする。そのいななきと馬蹄の響きは聞き覚えのあるものだった。まさか、と思えば、あっという間にその赤い影は蒐弐十と並んだ。
「羅彩女!」
「はっは、遅い遅い!」
 得意げに羅彩女は笑う。源龍はむっとしたものの、逃げた羅彩女がどうして、と思ったら。
「あんたが項羽とどう戦って、ぶっ殺されるのか、見届けてやるよって言ったのを思い出したのさ!」
 と声も大に闊達と笑った。そういえば、そんなことを彼女は言っていた。それを思い出し源龍を追ってきたというのか。しかも、
「あんた遅いね、ぼやぼやしてると抜いちゃいそうじゃないか」
 とまで言う。蒐弐十もいい馬だが、那二零の方がより優れているようだ。さあこれから、という時になんだか出鼻をくじかれた源龍であったが。下手をすれば羅彩女はこれから突っ込もうという乱戦に巻き込まれて、どうなるかわかったものじゃない。それでも追ってきたということは、よほど物好きとみえる。
 ともあれ、黒鹿毛と赤鹿毛の二頭並んで、韓信軍とともに項羽軍に突っ込み。
 ついに両軍は激突した。
「食い止めろ。項羽軍を食い止めて、漢王が逃げる時間を稼ぐのだ」
 自らも剣を振るい、乱戦にあって韓信は大喝し号令を轟かせていた。
(恐れていた通り、五十万の大軍ならぬ烏合の衆、項羽の名を聞いただけで皆逃げ出してしまったわい) 
 進軍中、幾度となくそれを恐れていたことか。それが現実のものとなってしまった。やはり、項羽は恐怖の代名詞であった。かといって自分たちまで一緒に崩れ去るわけにも行かず、自分たちだけでもと、万一に備えていた。
 今劉邦は少数の部下とともに、ほうほうの体で逃げている。その逃げる時間を少しでも稼ぐのだ。
 が、しかし。
 乱戦の中、凄まじいばかりに竜巻が起こり、血煙が竜巻によって吹き上げられている。韓信の軍勢も、その竜巻を食い止めようと、押し寄せるも。押し寄せども押し寄せども、その竜巻とどまるところを知らず。ますます屍山血河を築くのみ。
「項羽……」
 韓信は苦々しくうめいた。その竜巻は、項羽であった。大薙刀振るうところ血煙上がり、まさに竜巻が怒り狂うがごとし。項羽軍の軍勢も一兵卒にいたるまで、大将項羽の心魂が乗り移ったかのように、すさまじいまでの武者働きをし。韓信軍を一挙に揉み潰さんと、怒涛のように押し寄せる。
(こういうときこそ、源龍がいてくれれば)
 項羽およびその配下の働きを見るにつけ、強さにおいてはまさに天下無敵。はなから勝てないとわかり、頃あいを見て逃げるつもりで、劉邦の逃げる時間稼ぎと迎え撃って出たものの、その強さを見せ付けられると、大将軍韓信といえども心胆寒くなるのを禁じえなかった。強いもの、項羽と渡り合えるもの、となると、自分の配下にはおらず。顔見知りの源龍しか心当たりがなかった。
(ああ、やはりあそこで引き止めておくべきだった)
 崩れようとしている自軍をどうにか押しとどめながら、韓信は苦々しく後悔の念を噛みしめ、もういかんと、退却の号令を下そうかと思ったときだった。
 視界の隅で、さっと黒い影と赤い影が疾風のように駆け抜けていった。
「あれは」
 源龍ではないか! どうやら源龍はあの後も漢軍の後をつけてきていて、この乱戦にあたり我もと勇んで飛び込んできたらしい。馬はどかで仕入れたものらしいが、疑問なのはあの赤鹿毛の馬とそれに打ち跨る女であった。一体どこでどう知り合ったのか、男と一緒になって乱戦の中に突っ込むとはよほどの女傑のようだ。 
 いやそれよりも、疾風のようにこの乱戦を駆けてゆくたび、源龍は韓信の与えた股夫剣を振るい次々と敵を討ち取ってゆき。その勢いに乗じ、竜巻の如く暴れまわる項羽目掛けて突っ込もうとしていた。赤鹿毛の女も女傑さながら槍を振り回しそれに続く。
「なにやつ」
 項羽軍は突然現れた黒鹿毛と赤鹿毛の両頭に打ち跨る剣士と女傑に驚きはしたものの、そこは項羽率いる精鋭たちであった、たちどころにふたりと二頭を取り囲み、一挙に屠り去ってしまおうとする。
 だが項羽を求める源龍と、危険も顧みず、それについてゆこうとする羅彩女の敵ではなかった。取り囲んだ兵卒はことごとく討ち取られたうえに、狼狽を見せ、そこにほつれが生じさせ、それを見逃す韓信ではなかった。
「黒鹿毛と赤鹿毛のある方へ、突っ込め!」
 とすかさず号令を下した。ひと塊となった軍勢にとって、ちょっとのほつれでも生じればとたんに、そこから一挙に崩れてしまう。それほどまでに、戦争というものは不安定なものだ。韓信はそれをよく心得ていた。

項王来-xiang wang lai・4

 号令が下された途端、韓信軍は黒鹿毛と赤鹿毛に向かってどっと押し寄せてきた。源龍、羅彩女はその露払いとばかりに、得物を振るい我が道を切り開いてゆく。向かうは、覇王項羽。
「なにごとだ」
 返り血をおおいに浴びながら大薙刀を振るい、敵兵をなぎ倒していた項羽であったが、戦争の勘鋭くにわかに生じた変化を素早く察した。
 ふいに黒鹿毛と赤鹿毛がこの乱戦に紛れ込んできたことは見知っていたが、まさかそれが戦局を変化させるほどまでに働こうとは思っても見なかった。さらによく見れば、それらは重装していないどころか、平服ではないか。得物を使いこなしよく働いているとはいえ、そのようなものたちに突き動かされようとは、項羽の怒りは尋常でなかった。
「我が道を阻まんとするは誰か!」
 天も割れよとばかりにその大喝空を揺るがし、大薙刀を振りかざして源龍と羅彩女に向かい愛馬、騅を駆けさせ。我が道を血煙上げて切り開いてゆく。
「!!」
 源龍の脳髄に、びしっ! と何か電撃が走るような衝撃が駆け巡った。
「項羽っ!」
 敵兵を一騎斬り下げながら、自分に向かってくる竜巻のごとき覇王。羅彩女は槍を振り回しつつも、覇王項羽の鬼神のごとき戦場での奮迅ぶりを目の当たりにして、背筋が凍りつくのを禁じえなかった。その勇猛、話には聞いていたが、これほどまでとは、と。
(ほんとうに、これは人なのか)
 項羽の奮迅、それはもう人というにはあまりにも強すぎた。まこと鬼神のたぐいではないのか、と羅彩女は恐怖を感じ、源龍から逃げるようにして距離をとった。
 そんな項羽に挑もうとする源龍。その目は歓喜に溢れ、まるで欲しい玩具を見つけた子供のような無邪気ささえたたえて。阻むものを黒鹿毛の馬脚で蹴散らしながら、項羽向かって突っ込んでゆく。それを見、朱に染まった大薙刀をかかげ、項羽は己に挑みかかる源龍向かい、食らえとばかりに大喝一声。
「汝(われ)はなんぞ、我を覇王項羽と知っての狼藉か」
「応。我は楚人にして江湖の剣客、源龍。一剣士として覇王項羽に一騎打ちを所望せん」
「江湖の一剣客如きが僭越なり、さらに我れと同郷でありながら我に刃向かわんとする裏切り者。そのような下郎と交える剣はない。下がれ」
「否、否。下がらじ」
 相手に否定されようがお構いなく、叫びながら源龍は股夫剣をかかげ、項羽向かって黒鹿毛、蒐弐十を駆けさせる。蒐弐十は源龍の心魂乗り移ったか、けたたましくいななき、風を打ち砕いて疾駆する。
「その身の程知らず、哀れなり」
 と朱に染まった大薙刀を振りかぶり、項羽もまた騅を駆けさせ源龍に斬りかかる。これを見た韓信、羅彩女らは乱戦の中得物を振るいながらも、息を呑む思いだった。羅彩女は源龍が項羽との戦いを望んでいることを知っていたが、このどさくさにうまく紛れて、実際に挑みかかるのを見て驚くことしきり。また韓信も、源龍をこの場において望んでいいながらも、いざそれが現実となると、腸(はらわた)を断ち切られそうなほどの緊張を覚えるのであった。
「でぇやあぁ!」
 双方裂帛の気合を発し、その得物は風を切り唸りを上げ。火花を散らし激しく激突した。周囲の者たちは突然はじまったこの一騎打ちに驚き、また剣風のうなりすさまじく、徐々に徐々に激突する二騎より離れてゆき。戦を忘れ、固唾を飲んで、じっと成り行きを見守っていた。
 項羽と源龍の、それぞれの愛馬も主の心魂乗り移り、互いを激しく見据えながら、けたたましくいななき、その乗馬もまた人と人馬一体となって戦っていた。
「あのむっつり屋、あそこまで強くなっておったか」 
 韓信は項羽と互角に渡り合う源龍に舌を巻いていた。気がつけば、自分の周囲までもが一騎打ちに魂を奪われたように戦の手を休めていて、見入るあまりそれすら気付かないようだった。
(あ、いいぞいいぞ、励め源龍。これで漢王の逃げる時間を稼げる)
 勝てぬと知りながらも打って出たのは、まさにそのためだったが。思わぬところから好機が到来したものと、韓信は心の中で喝采した。いかな無敵の項羽軍とて、大将がひとっところにとどまって戦況を把握せず、いたずらに己の勇戦にふけっていては動くことはままならぬ。しかも項羽自身、源龍を討つことに躍起になって、それに気付いていない。
(漢王の運、まだまだ尽きておわさぬわ)
 と韓信は喜びをじっと噛みしめるのであった。が、それに気づいたものが項羽軍の後陣にあった。それは項羽軍の軍師、范増(はんぞう)であった。眉も髭も白いが、齢七十を越えてもなお壮健なこの軍師は、
「いかん」
 と後陣より項羽がどこの誰とも知らぬ一剣士と刃を交えているのを見て、慌てて、
「楚王ともあろうお方が、雑魚を相手になにを力んでおるのか。これでは軍の動きもままならぬではないか」
 と左右のものをかえりみて、
「龍且(りゅうしょ)殿に伝えよ。雑魚は龍且殿が代わって相手をせよ、と。またその方は楚王に、あとは龍且殿に任されて、劉邦を追われよ、と伝えよ」
 と言うと、左右の者たちは「はっ」と辞宜をして命を受け、ぱっと馬を駆けさせて飛んでゆき。それぞれ范増の下知通り、龍且に、また一騎打ちに熱中する項羽に伝えた。
「実にも」(げにも・いかにもの意)
 と龍且は馬を飛ばして大刀を引っさげ源龍向かって突っ込んでゆき、項羽は源龍を打ち捨てて劉邦を追おうとする。確かに范増の伝える通り、雑魚を相手にしている暇はない。こうしている間にも、劉邦は逃げているのだ。
「あ、待て。逃げるか卑怯者」
 と後を追おうとした源龍であったが。
「控えろ下郎! 身の程をわきまえぬ不埒ものは、楚王に代わってこの龍且が一刀のもと屠り去ってくれん」
 と龍且が大刀を振りかざし、源龍に挑みかかる。せっかく一騎打ちが出来たのに、項羽に逃げられ歯噛みしていたところへ、邪魔が入りその悔しさ計り知れない。
「龍且か、うぬでは役不足だ。どけ」
「ほざけ。たわ言は冥土へ逝ってから言え」
「その言葉、そっくりそのまま返してやる」
 と、悔しさをぶつけるように、今度は龍且と激しく刃を交える。
(項羽に続いて、楚の猛将、龍且と渡り合うなんて、なんて男だよ)
 羅彩女はたてつづけに名の知れた猛者と渡り合う源龍の、そのすさまじいまでの闘争心にただただ舌を巻くより他はなかった。なるほど、自分の目は正しかったが、ただ惜しむらくはそこまで見抜けなかったことだった。

項王来-xiang wang lai・5

 さすがに今回ばかりは誰も一騎打ちを傍観せず、潮の引くが如く源龍、龍且の二騎を尻目にどっと、置いてけぼりとそのそばを駆け抜けて、項羽の後を追う。
 源龍とて項羽を追いたかったが、龍且に阻まれそれもままならない。
「よし、引け。もう楚軍など相手にするな、逃げろ、逃げろ」
 とこの機を見計らい韓信は退き鐘を打ち鳴らさせる。もう十分劉邦が逃げる時間は稼げたはずだ、ならもう無理にここにとどまる必要はなかった。
 龍且も頃合を見ると、さっと源龍から離れ項羽の後に従い劉邦を追おうとする。逃がすか、と蒐弐十を駆けさせようとするも、前に楚の兵らが立ちはだかり行く手をさえぎる。
 項羽も龍且も、源龍と刃を交えようとも、なにぶん源龍はどこの馬の骨とも知れぬ輩である。討ち取ったところで何の益もない。戦は大将格を討って意味がある。雑魚などいくら討ったところで意味はないのだ。
 斬っても斬っても楚の兵は次から次へと行く手を阻む。きりがない。いかんせん、源龍ひとり。いくら彼でもその勇猛には限度がある。項羽、龍且と続けて戦ったうえに今度は数にものを言わせた人海戦術。疲労は極に達しようとしていいた。
「くそ、忌々しいやつらめ。俺はこんなところで死ぬわけにはいかん」
 ようやく項羽と戦えたのに、途中で逃げられ。その後で雑兵にやられるなど、これほど無念なこともない。というとき、赤い影がさっと己を取り囲む楚兵の間を縫って割って入ってくる。
 羅彩女と那二零だ。
 羅彩女は楚兵を槍を振り回し、楚兵をぶっ倒しながら、
「あたしらも逃げるよ!」
 とわめく。
 突然の羅彩女の乱入に楚兵は乱れを見せ、その隙に、心得たり、と源龍は蒐弐十を飛ばし那二零の後に続く。
「なんで戻ってきた」
 てっきり自分を見殺しにしてさっさと逃げるかと思っていたのに、羅彩女が源龍の助っ人にまわることに、意外な思いだった。が、羅彩女は、ふっと笑って。
「言ったろう、あんたがどう項羽にぶっ殺されるのか、見届けるってね。それより、先に礼を言うのが筋じゃないのかい」
 とのたまいながら、那二零を飛ばす。
 源龍はちぇっと舌打ちしながらも、
「そうだな、ありがとうよ」
 と意外に素直に例を言った。そうそうと、乱戦の中にありながらもからから笑う羅彩女の駆る那二零の、その速さ赤き風の如しで、馬脚も強く、人馬ともに風にぶつかり、風を打ち砕き地を駆ける。源龍も目一杯蒐弐十を駆けさせるが、着いてゆくのがやっとで。改めて那二零の駿馬っぷりに舌を巻いていた。
 のちの後漢末の世に、人中に呂布あり、馬中に赤兎あり、といわれている。那二零はその赤兎の先祖筋になるのであろか。ともあれ、乱戦ひと塊、血風吹きすさぶ修羅場はこれで終わりを告げたわけではなかった。
 劉邦を追うほかに、城内になだれ込んだ楚兵たちはこれでもかと言わんがばかりに漢兵を打ち倒してゆき。さらにいともたやすく楚に寝返るものまであり、漢軍が最初彭城に入ったときの威勢はどこ吹く風か。昨日まで漢軍として略奪を楽しんでいたのが、途端に劉邦を追う有様。
 五十万である。それらが大混乱を起こして共食いする有様が、ところどころで見受けられて。水朝優が吐いたように、この地上に地獄絵図が繰り広げられていて。それに巻き込まれてしまえば、抜け出すこと容易ではない。
 水朝優や麻離夷、香澄に貴志。この乱戦に巻き込まれまいと急ぎ逃げ出したものの、あっという間に濁流のごとく押し寄せる楚漢の大勢に飲み込まれ。ことに貴志は漢兵の姿をしているので、楚兵の格好の標的となり、やむを得ず剣を振るって麻離夷と香澄をかばいながら、四方八方逃げ惑う。
 ひとりひとりであるなら、貴志もそれなりの手練れである、そう簡単に負けはしない。水朝優もかつて秦の始皇帝の命ではるか西方まで旅をしただけあり、それなりに武芸の心得もあって立ちはだかる楚漢の兵を叩き斬ってゆくものの、いかんせん衆寡敵せず、きりがないと悲鳴を上げる。
 麻離夷は笛を吹きながら香澄の手を取り、貴志や水朝優にかばわれどうにか今のところ無事でいられてはいるものの、このままでは四人ともどうなることやらと案じられて、恐ろしくて、白い頭巾の中で笛の音をとともに声にならぬ声で悲鳴をあげ、あえいでいる。
「麻離夷!」
 剣を振るいながら水朝優は叫んだ。
「こうなったら仕方がない。香澄を使え!」 
 その言葉にはっとした麻離夷だったが。くわえた笛から音は出ず、何か迷っているようだ。そこへさらに水朝優は、早くしろと畳み掛ける。
「このままでは俺たち皆やられてしまうだけじゃない。お前と香澄は女の悲惨を味わいながら、なぶり殺しだぞ。それでもいいのか!」 
 それでもなお迷っているところへ、後ろからがばっと漢か楚の兵がしがみつき。その手が胸を鷲掴みにし、麻離夷は何か破裂でもしたかのように悲鳴を上げる。笛が地に落ちる。
「あ、こいつは女だ、女だぞ!」
 とその兵は狂喜して叫んだ。白頭巾で顔を覆っていたため男女の別がつきにくかったが、その柔らかな感触を感じて早速押し倒そうとする。そこへ貴志が激しく兵に蹴りを入れ、思わず麻離夷の手を取って剣を振るい暴虐の徒と化した兵たちを必死になって振り払う。無論、香澄にも同じような輩が殺到する。
 貴志は返り血を浴び、甲冑もところどころがほころび、そこから赤い血が筋を引いて垂れ落ちている。それでも、麻離夷をかばい戦い続けている。
 繋がれる手の熱さを感じながら、麻離夷は貴志の必死の横顔を見つめた。彼も強く、その強さで自分を守っていてくれるが、それもいつまで持つかどうか。
「ほら、早くしろ!」
 地に落ちた笛は水朝優がすぐさま拾い上げたのでどうにか無事だった。麻離夷はもう迷ってはいられないと、笛を口にくわえ。ぴいひょろろ、と力強く吹いた。すると、それまで光のなかった香澄の瞳に光りが宿った。
 麻離夷の手を握り、それをかばいながら、貴志は目を見張った。笛が吹かれるや否や、香澄は紫の衣をひるがえし風に遊ぶ蝶のように舞い、七星剣を振るい。
 楚や漢の兵、自分たちに襲い掛かるけだものたちをかたっぱしからなぎ倒し。笛の音に乗って、血風を激しく吹かせてゆく。
 七星剣の剣身に埋め込まれた北斗七星の紫の珠は、血風の中、妖しく光り輝き。香澄が振るうたびに、紫色の七つの残影が虹のように筋をつくって、これまた血風の中流れてゆく。
 麻離夷は力の限り笛を吹く。その笛は竹の小笛で穴も一箇所のみで一見簡単なものだったが、麻離夷が片手に持って一くわえすれば、たちまちのうちに様々な音色が弾き出されて。その音は時に甲高く、時に低く重く。朝夕潮が満ちまた引くように、はたまた山の木々の葉が風に吹きさらされ騒ぐような、そのうちに陽が昇り沈んでいき、変わって月や星たちが空に浮かんでゆくような。整った音律は聞く者の耳に溶け込みつつも千変万し、音色によって血流の速度まで変わっていきそうだった。

項王来-xiang wang lai・6

 貴志は片手に剣を、片手で麻離夷の手を握りながら笛の音色を耳にし、その音色に聞き入りそうだった。のみならず、不思議と気持ちが高揚し恐怖が薄れ、どこか音色に操られそうな不思議な思いにもとらわれていた。
 なにより、笛の音にあわせ、踊るように剣を舞わせる香澄の、その姿。
(そうか、あの時の笛はこの人が吹いたものか)
 ということは、あの時このふたりはその場にいたのか。そして、笛の音によって香澄を意のままに操ることが出来るらしい。ごくりと唾を飲み込んでしまった。一体この人たちは何なのだろう、と。
 疑問が疑問を呼ぶ。それを察したか、
「後でゆっくり話してやるから、とにかくここから逃げ出すことだけに専念しろ!」
 と水朝優は貴志にどなった。
 不意に麻離夷の横顔をのぞいた。彼女も生き残ろうと必死に笛を吹いている。手は、貴志から離さずに。この乱戦、命の危機に瀕しているからか、人のぬくもりや熱さが恋しいのか。麻離夷も貴志の手をしっかと握っていた。
(そうだ、まずは生きなければ)
 うん、と力強くうなずき、迫りくる楚や漢の兵たちをひたすら剣で追い払い、斬り払った。降りかかる火の粉は振り払わねばならない。たとえこっちが不戦と唱えても、むこうはいきり立ってそうではないから。それでも、貴志と麻離夷の心は痛んだ。
 その麻離夷の興奮も極に達するか、笛の音は力強さを帯びてくる。それにともない香澄も剣を舞わす速度を増す。というときだった。

四方在喊声廻響 
剣飄舞      
北斗血風閃亮   
這是七星剣    
但是七星不眺望我 
七星求君     
七星求君

四方に喊声響き
剣は舞い
北斗血風に光る
これ七星剣ならん
されど七星我を望まず
七星君を求める
七星君を求める

 はっと耳をそば立たせれば、それは香澄が歌っていた。声可愛げで低く控えめで柔らかなれど、喉や腹どころか心の奥底から押し出されるような力強さまで感じさせ、よく響く。
「香澄が、うたを」
 貴志が驚いたのは言うまでもないが、もっと驚いたのは水朝優と麻離夷だった。今笛の音によってこの美しき屍魔は操り人形となっているはずだ。それがなんでうたを詠うか。
 それに、君を求めるの、君とは誰のことなのか。
 どうにか身をかばいながら唖然とする中で、
「やっ」
 と叫ぶ声がした。その声の方を振り向けば、貴志と麻離夷、水朝優は生きた心地もせず、もう駄目かとさえ思ってしまった。
 視界の先には、覇王項羽が愛馬騅に打ち跨って、大薙刀を高々と掲げ軍勢を指揮していた。それが香澄をじっと目を凝らして見ていた。楚の兵を容赦なく七星剣で葬り去ってゆき、項羽の怒りに火をつけるかと生きた心地もしなかったが。
「虞よ、虞よ」
 それまで鬼神のごとき形相であったのが、途端に今にも泣き出さんばかりの悲しさに包まれて、そう叫んでいた。かと思うとおもむろに、大薙刀を高々と掲げ、
「とどまれ!」
 と全軍に向かい怒号をはなった。
 その声まるで人より雷鳴り響くがごとくで、周りにいた血気にはやる兵たちも、楚漢の別なく気を一片にそがれてしまって。変わって修羅場には、ぴんと糸でも張られたような緊張と静寂に包まれた。
 貴志も麻離夷も、水朝優も、その周りの兵たちも、落雷に驚いたかのように、木偶のように動かない。
 が、香澄は項羽の命など意に介さず剣を舞わせて、項羽向かって駆け出す。その手に七星剣が光る。
「汝女の身にてその手にもちたる剣はなんぞ」
 と大薙刀を香澄に向け突き出し、今にも斬りかからんがばかりな勢いを示した。しかしながら項羽の心中穏やかではなかった。香澄の、乱戦の中剣を舞わせうたを詠うさまを目に、信じられない思いでもあったし。そこへきて、それが初恋の少女の面影を持っていたこと。
(虞よ!)
 と心にいたく衝撃を受けた項羽は、初恋の少女、虞を思い起こし一瞬だけ軽い錯乱状態に陥った。虞は項羽の少年時代に、ぱっと花の散るがごとく若き命をまっとうしたはずだ。それが、まさか生き返ったわけなどなく、そうでなくとも虞が乱戦の中剣を舞わせるような芸当などまず出来ないことも項羽は知っている。だが、それでもその心は千々に乱れ、息すら整えることが精一杯。覇王とて、いまだ二十六の若者であった。
 水朝優と麻離夷は、七星剣を手に項羽に近づく香澄を、生きた心地もなく見つめていて。そばで貴志も同じように、息を潜めて成り行きを見守っている。
(この娘は何者だろう。どうして虞に似ているのであろう)
 香澄は項羽の戸惑いなど知らず、顔に微笑すら浮かべている。それを見て、彼の脳裏にありし日の虞の面影が浮かんでくる。それが、香澄と重なった。
「虞、汝は虞か」
 思わず、口走った。彼はいま十五の少年に戻っていた。虞も項羽と同い年で、その十五の歳に……。
 周囲は呆然としている。覇王の、覇王らしからぬさまに驚くあまり魂をもぎ取られたように。その遠くから、けたたましき馬のいななきと黒鹿毛の駆ける蹄の音と、
「うおおぉぉぉーー!」
 と股夫剣をかかげ絶叫し項羽に迫る源龍があることに、気付くものは少なかった。
 香澄は項羽に向けていた微笑を、迫り来る源龍に向けると、憂いを含んだ悲しげな眼差しになって、その瞳が憂いに濡れ光り。七星剣の北斗七星もまた光り。
 すぅ、と風に乗るように衣の袖をはためかせながら迫り来る黒鹿毛へと駆け出した。
「香澄!」
 前に立ちはだかる者があった。それが香澄だとわかって、源龍はまた絶叫し。黒鹿毛を駆けさせ一剣必殺とばかりに、一陣の剣風を巻き起こす。しかし香澄はその剣風に乗ったかのように、ふわりと蝶のように高く舞い上がり、これもまた一陣の剣風を巻き起こし。
 双方の剣風互いに鬩ぎ合い(せめぎあい)、ぶつかり合って。北斗七星は光った。
 ことに一方は馬上より、一方は徒歩で。源龍は蒐弐十と人馬一体となって、香澄を攻めた。しかしながら、香澄は蝶のようにひらひらと舞い、己向かって繰り出される剣風をかわすばかりか、時折高く跳躍し七星剣の繰り出す剣風をもって源龍を翻弄した。
 
 七星不眺望君
 七星不眺望君 

 ……

 七星君を望まず。戦いの中、短いながらも香澄はさっきと同じようにうたを詠った。そりゃどういう意味だ、といぶかりながらも、源龍は股夫剣を振るう。
 ふたりの周囲には数万と兵がひしめいているのに、まるで無人の野のような傍若無人な戦いぶりであった。

項王来-xiang wang lai・7

 これに黙っていられなかったのは、項羽であった。
「助太刀」
 と叫ぶや、大薙刀を振りかざし竜巻を起こして、源龍と香澄の繰り出す剣風まで飲みこもうとする。そこへ、赤い影がすかさず割って入る。これなん赤鹿毛、那二零に打ち跨る羅彩女であった。
 羅彩女は槍を振り回し、気合の一喝をほとばしらせながら香澄を馬上よりその長柄で打ち払おうとする。
 それはさらりとかわされ、そこへ項羽の大薙刀が迫る。
(ああ、だめ)
 大薙刀の唸り声に胆を縮め、さすがの羅彩女もこれまでかと観念した。が、それを受け止める股夫剣。
 がっきと、火花が散るや大薙刀と股夫剣は唸りを上げて何十合も渡り合った。羅彩女はというと、槍を振るって香澄と渡り合うも、北斗光る七星剣のもと、防戦一方だ。
 源龍、羅彩女とこの乱戦を逃げ惑う中、幸か不幸か項羽をみつけ、再戦を挑んだのであった。が、よもや香澄までいようとは。その心はますます燃え上がった。
 それを、
(またか)
 と苦々しく眺めているのは、老軍師范増であった。その気配を察したか、項羽は途端に馬を返し、
「勝負は後日」
 と言うと、源龍を置いてゆこうとする。そこへ、羅彩女を攻め立てていた香澄も取って返し、項羽に付き従うではないか。それを見て、
「我とともにゆくか」
 と項羽は問えば、
「どこまでも」 
 と香澄は応える。
 項羽は少年のように顔をぱっと輝かせると、手を差し伸べ。香澄もまた手を伸ばして項羽の手を取り、ひょいと飛んで騅の腰にうまく腰をかけ、項羽の背につかまる。
 水朝優と麻離夷は呆然とそれを眺める。
「逃げよう。とにかく逃げよう」
 貴志は夢から覚めたように、はっとして言うと。麻離夷の手を取って走り出し。水朝優もそれに従った。
 ぱっと空気が弾けたように周囲は己を取り戻して、再び刃を交え乱戦模様を呈してくる。源龍、羅彩女もいい加減逃げねばと、蒐弐十、那二零を駆って戦場から抜け出し。彼ら彼女らは乱戦より逃げ出す過程で落ち合い、黒鹿毛と赤鹿毛を先頭に逃げ道を切り開き。辛くも一命を取り留めたのであった。
 戦場よりかろうじて逃げ延び。
 源龍らはとりあえず安堵のため息をつく。ことに麻離夷の疲労ははなはだしく、羅彩女は馬を下りてやって、麻離夷を乗せてやった。
 重い足を引きずりながら、たどり着いた小さな集落。この戦乱で逃げ出した民も少なくなくて、空いている家屋に宿を求めるのは造作もなかった。
「まさか、香澄が」
 水朝優と麻離夷はただそればかりつぶやいていた。確かに項羽に近づきその愛妾となる段取りではあったが、馬鹿正直にそれを遂行する気もなかった。
「もう、なにがなんだか……」
 麻離夷は頭巾を取り、頭を抱えた。その金髪碧眼の容姿に、源龍、貴志、羅彩女は改めて驚き、思わず彼女をまじまじと見やってしまう。
(ここまで色の違う髪と目は見たこともない)
 万里の長城の向こうにある草原や砂漠地帯で幼年を過ごした羅彩女も、麻離夷の容姿はかなり珍しいようだ。長城を越え、西へゆくほど中原と異なった目鼻顔立ちに肌や髪に、目の色の人種や民族があることも知っている。それにともないその文化様式も違ってくる。幼年期に匈奴人として過ごした蒙古の草原や砂漠地帯は西域やシルクロードの中継地としても知られる楼蘭、敦煌などのオアシス都市や国家があり。独自の文化を築きつつも東西強国の板挟みに置かれるのだが、それが史書において顕在するのはやや後の時代のこと。
 ともあれ、皆疲れているから今日のところはゆっくり休み。詳細は翌日語られることとなった。
 朝、源龍と羅彩女はそれぞれ馬を駆って狩りにゆき、当座の食を求め。
 貴志は早く起きて、周りに異常がないことを確認して回った。追っ手がいまいか、といつでも剣を抜けるよう身構えて。その間にも、麻離夷の顔がちらちらと脳裏に浮かぶ。あの乱戦の中、咄嗟に手を握ったこともひっきりなしに浮かぶ。どうしたのだろう、と自分でもおかしいとは思っていたが、ひとりの女性が気になるなど初めてのことで戸惑いも覚えた。
 見回りが終えると、麻離夷が笑顔で出迎えてくれていて。貴志は思わず顔を朱に染め、自分の心の動きを察せられまいとどうにか冷静を装うのであった。
 そうするうちに源龍、羅彩女が戻り。狩ってきた兎や小鳥をさばいて火にあぶる。
「さて……」
 肉が程よく焼け皆がそれを口にするころ、それぞれの自己紹介を経てから、水朝優が重い口を開いた。
 自分がかつて秦に仕えていた事。始皇帝の命で不老不死の妙薬や方法を探るため西方へ旅したこと。そこで『活死自在経』を見つけ、持ち帰ったこと。その過程で、大月氏よりもさらに西方より彷徨い旅した麻離夷に出会ったこと。
 そして、趙高が生きて『活死自在経』をもって屍魔をつくり上げた事。香澄もその屍魔であること。その香澄を項羽に近づけること。漢の密偵を無残に殺したことなどなど、洗いざらいすべてぶちまけた。
 その間、麻離夷は黙ってうつむいたままだった。笛の音によって、屍魔を思い通りに操ることもまた、『活死自在経』に記されてあったことだという。
「まったく、とんでもないものを見つけてしまったものだ」
 と水朝優は苦々しくつぶやいた。
「俺は、ただ秦の臣たらんとしてのことだった。地獄を作り出すことまで望んではいない」
「よく言うものだ」
 声を荒げ、水朝優に迫るのは貴志であった。貴志は祖国韓を秦に滅ぼされ、張良とともに復讐と復興のために今まで生きてきた。秦への憎悪はそうそう消せはしなくて。そこへ来て仲間の非業の死、それこそ目の前の秦人を今にも、斬り殺さんがばかりの剣幕であった。
「秦の世も地獄であったではないか。秦のためにすることは、これすなわち地獄をつくることではないか。何の違いがあるというのだ」
 迫る貴志に水朝優は押し黙っていた。言い訳はせず、貴志の吼えるに任せていた。そこへ、源龍はおもむろに立ち上がると、その胸倉を引っ掴み。思いっきり拳をその頬に見舞った。
「何をする!」
 いきり立った貴志は剣を抜く。だが源龍も股夫剣を抜かず、じっと対峙する。 
「お前は楚の人間だろう。秦が憎くはないのか。残り三戸となるも、秦を滅ぼすのは楚ならん。というのは嘘か」
「うるせえっ!」
 すべてを掻き消す大喝。源龍はぎろりと貴志を睨み。周囲は緊張につつまれる。
「甘ったれやがって。てめえひとりぎゃあぎゃあ騒いで何になる。それが腹が立つのさ」
 ふん、と鼻息も荒く。
 とつぜん貴志の胸倉を片手で掴んだと思ったら、もう片方の手で、
「お前、きんたまはあるか」
 と突然急所もつかんだ。

続く

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項王来-xiang wang lai・8

 痛さに顔を強張らせ、貴志は咄嗟に頭突きを見舞うが、源龍上手くかわして、どっかと座って、兎の肉を口に放り込む。
「ふん、腐れ儒者め。そんな無用の長物切り取って、宦官になってしまえ」
 屈辱を感じた貴志は咄嗟に斬りかかろうとすると、
「やめて」
 麻離夷が飛び出し、貴志の手を掴もうとしてしくじり、剣を握ってしまった。その白い手が、血で赤く染まる。
 はっとして貴志は剣から手を離し、麻離夷も剣から手を離し。剣はからんと音を立て、地に落ちた。
 羅彩女も水朝優も、源龍も、目を瞠って(みはって)、この成り行きを眺めていた。
 麻離夷の掌は傷つき、身を縮め丸くなってかがみこみ。貴志は「すまない」と繰り返しながら、かたわらに座り、服を裂いて麻離夷の手に巻く。
 気まずい沈黙が流れる。
 この間、水朝優は自分たちに追っ手がないことを薄々気味悪がっていた。趙高が自分と麻離夷に疑いをもっていることは知っていし。香澄を連れて華山を下りたことが、逃げ出すためであったことは気付いているはずなのに。
 それともうひとつ、香澄。麻離夷の笛の音も効かず、灯火に惹かれる蛾のように項羽に寄り添って。
(俺があばいたのは確かに香という家の、香澄という娘の墓であった……) 
 脳裏に、嫌な予感が閃いてくる。まさか、と思いつつも。そのまさかのように思えてならなかった。
 まさか、やはり、香澄の魂が少しでもその肉体に戻って宿ってしまったのか。そこへ来て。
(あの時、項羽は虞といった。あの様子からして、ただならぬ想いを抱いていたようだが。まさか、香澄は虞という娘に似ていて。それを、項羽が……)
 なんという偶然であろうか。こんなことがあるのか、と内心驚きを禁じえなかった。香澄は、項羽の気持ちに感じ入ったのだろうか。屍魔でありながら。
 思えば香澄は不思議な屍魔であった。よく出来たといえばよいのか、出来てしまったというのか、それともあれは失敗だったか。自分の意志を持つというのは、まあともかくとして、絶対服従をさせる笛の音が効かなくなるとは。まさに、蘇ったといってもよかった。
 アスラやヤクシャは、どうこう言っても人間の下僕からは抜け出せないでいるのに。だからこその、屍魔なのだが。
(反魂玉がなければ屍魔は屍に戻る。もしそうなったら、香澄はどうなるだろうか)
 華山のあの洞窟内に、反魂玉が飾られている。どういう理屈か知らないが、反魂玉があれば屍魔は「生きて」いられて。それが砕けたりしてなくなれば、数日のうちに屍に還る。
 この反魂玉をつくるのが、一番厄介であった。趙高も何度諦めようとしたことか。それを水朝優と麻離夷の協力あって、ついにつくり上げてしまった。
「狡兎死して走狗煮らるる」
 すばしっこい兎を狩ったら、もう狩りの犬はいらなくなって、煮て食われてしまう。という意味の言葉を、ぽそっとつぶやいた。
 そのとき、
「ふん、付き合ってらんねえな。俺は行くぜ」
 気まずい沈黙にこらえきれず、源龍は肉を食い終え、蒐弐十に打ち跨ってどこぞへとゆこうとする。「どこへゆく」と水朝優が問えば。
「韓信のところへ」
 とだけ答え、ぱかぱか蹄の音をさせながら遠ざかってゆく。
(韓信。こいつは、韓信を知っているのか? そうだな、流民のように彷徨っていても仕方がない。俺たちも一緒に行くか)
 と肉をあぶっていた火を消し、
「待て、俺たちも一緒に行く」
 と源龍についてゆく。無論他の皆も一緒で、羅彩女は「待ちなよ」と慌てて那二零に乗ってついてゆき、麻離夷も水朝優にしがたい。貴志も行く先もなく憮然としつつも、麻離夷が行くのなら、とついてゆく。
 源龍はついて来られて、いかにも面倒そうな顔をしたが。勝手にしろ、とばかりに無言で前のみを見て蒐弐十を進ませて。
 そのくせ心の中で、
(前のようなへまをせず、今度こそ礼をもって韓信さんに取り入らないと)
 とか考えていた。
 劉邦はというと。突然の項羽襲来に胆を冷やし、幾度かの危機もあったがどうにか乗り越え、ほうほうの体で命を生きながらえさせて。再起を図っていた。
 その再起を図るのひとつが、劉邦が項羽と対峙する一方で、韓信に別働隊を率いさせ、諸国を平定させるというものであった。韓信は項羽襲来の折りよく戦い、劉邦の逃亡を助けた。国士無双とうたわれるほどの、その軍事的才能は劉邦以下漢の者たちも一目置くところだった。
 源龍らが韓信軍と接触したのは、この時だった。
 この時ばかりは、前回と違って待遇も良く。あっさりと軍に加わることを許された。その変わりように、かえって源龍が戸惑ってしまったほどだった。無論、羅彩女たちも一緒だ。
「あの、項王と互角に渡り合うほどの豪傑と知っておれば」
 と、前に源龍を見下していた家来までもがやけに親しげに話しかけてくる。あの乱戦で、項羽に挑むだけでもたいしたものなのに、互角に渡り合ったのだ。おかげで韓信軍は壊滅を免れ、それ以来、あれは誰だと皆が噂しあい。かの家来は、先の言葉の通り、ぞんざいに扱ったことを悔いていた。ちなみに香澄のことは、韓信軍が引いたあとのことなので、知る者はなかった。
 それよりもなによりも、一番喜んだのは、当の韓信であった。
「いやあ、俺の目は間違いではなかったな。お前に剣をやって、正解だったよ」
 とある夜、小さいながらもわざわざ酒宴をもよおし、その機嫌もすこぶるよかった。大勢でわいわいやるよりも、少人数で、心置きなく、という源龍の飲み方の好みに合わせてのことだった。
 酒を酌み交わしながら、
「お前も偉くなったなあ。いつの間に家来をつくった」
「いや、家来じゃなくて、勝手についてきたんだよ」
「ふーん、もてるのを自慢したいのか」
 にやにやと、羅彩女を指差す。
(これが、あの韓信か)
 羅彩女はずっこけそうな思いだった。国士無双、名うての戦上手とその評判は上々で実際に羅彩女もあの時の乱戦で韓信の戦ぶりは見ていたが、機を見るに敏、まさに噂にたがわぬ駆け引きのよさには、感心したものだった。
 それが、源龍とくだらない笑い話に興じている。
「なんなら、やろうか」
「ほんとか」
「こらこら、勝手なこと言いっこなしだよ」
 自分をいやらしい目つきで眺める国士無双を、きっと見据える。
「いや、やめとく。身体が持ちそうにないでな。あれの相手がつとまるのは、項羽と互角に渡り合ったお前だけだろう」
「女は得意じゃないか」
「まあな、戦のようにはゆかぬ」
「ふうん、そうかなあ」
「大将で軍を率いればわかるさ。なんなら、お前に一軍をやろうか」
「いや、俺は大将の器ではないよ」
「そうか、だがお前さんがいれば百万の味方を得たも同然だ」
「そう言ってくれるのは嬉しいが……」
 源龍は杯を持ったまま沈思する。今回は上手く韓信軍に加われたが、いかんせん別働隊、項羽と直接戦うことはない。それが気がかりだった。
 項羽は王であり、江湖の一剣客が相手をするにはあまりにも規模が違う。そこで知り合いであった韓信の軍に加わり、項羽と刃を交える機会を得ようとしたのだったが。当てが外れた思いだった。
「そうそう、あたしはこいつが項羽とどう戦い、どうぶっ殺されるか見たくてついてきてるんですよ。変な勘ぐりは、おやめになってくださいましね」
 と羅彩女は酒に酔い朱に染まって火照った顔で、からから笑う。それを聞き、韓信はなるほどと相槌を打つ。
「ほう、項羽とやり合いたいというのか」
 好奇にあふれた、まるで童(わらべ)のような笑顔をもってからかうように言う。源龍は気まずそうに愛想笑いをし、
「うん、まあ、そうなんだ。あんたのところに行けば、やれるか、と思ったんだがな」
「おお、そうかそうか、はっはっは」
 なるほどあの時項羽に突っ込んだのは、何も単純に韓信のためでも手柄のためでもなかったということがわかって、韓信はなおさら愉快そうに笑った。
「下心があったんだな。その方がお前さんらしくていいじゃないか。まあ、しばらくは項羽とやりあえんかもしれんが、仕事が終われば、やれる機会もあるさ。その間に討たれでもすれば、それは、所詮項羽もそれまでの者だったということさ」
「韓信さん……」
「つまりは、お前には、どうしても俺の手伝いをしてほしいのさ」
 さてはてと思いつつも、ここまで自分を必要としてくれていることがわかって、源龍も悪い気はしなかった。士は己を知るもののために死す。ふと、その言葉が浮かんだ。
「しかし、他の連中は無愛想だなあ。皆で一緒に飲んだ方が楽しいのに」
「ふうむ……」
 そのころ、貴志や水朝優、麻離夷は韓信の誘いを断って、思い思いに夜を過ごしていた。韓信もおおらかというかおおざっぱというか、別にこれを無礼とも思わず好きにさせた。
 水朝優は疲れたとさっさと寝て。麻離夷は酒が苦手で、酒宴を避けひとり夜空を見上げていて、後から貴志も一緒になって夜空を見上げていた。
 夜空には北斗七星が浮かび、ほかの星たちとともに白く輝いている。その脇、柄の第二星の脇、にある小さな星、輔星(ほせい)もかすかに輝いている。死が近いものは、輔星が見えなくなるという。
 夜になって、その輔星を目にし、ふたりは今も生きているということを感じていた。

scene5  項王来-xiang wang lai 了
scene6 遠征 に続く

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遠征・1

 時はさかのぼる。
 楚の都、彭城が項羽により奪還されたころのこと。
 項羽は劉邦軍を追い払い、意気揚々と凱旋した。そのとき、女を連れていた。人は、あれは誰だろう、と噂しあった。
 紫の衣をまとい、目の覚めるような美しい娘であったが。腰には、剣。その剣であの乱戦の中、うたを詠いながら剣を舞わせていたことは、幾人もの兵たちも目にしている。そんな娘を、項羽は連れて城に凱旋したのだ。
(どこの馬の骨ともつかぬ娘を、気がお触れ遊ばされたか)
 と心配するものもいる。だが当の項羽は意に介せず、まるで新婚旅行から帰ってきたかのように、娘と笑みをかわしていた。
 だが、城の惨状にはひどく心を痛め。それとともに、劉邦への復讐心はますます燃え上がった。
 軍議をし、兵をまとめ、来るべき劉邦との戦いに備えてその夜はやすませ。自身は奥の間に控えさせていた香澄に、酒をつがせながら、物語りに興じていた。城の惨状に心も痛むが、香澄への興味は尽きず溢れる一方で。知らずに、虞よ、虞よ、とつぶやいていた自分にさえ気付かなかった。
 香澄は侍女や召使いの整えたささやかな酒肴のよそおいとともに、項羽を待っていた。さすがに、今は七星剣は佩いておらず。侍女に預け、奥に仕舞っている。
 項羽はそれを見て、小躍りしたくなるような思いに駆られるとともに、成り行きでつれてきたこの娘の名さえまだ知らぬことに、今になって気付いた。
「そなた、名は何という」 
「あなたさまは、最初わたくしを、何と呼ばれました」
「虞、と呼んだ。昔の、初恋のひとに似ていたから」
「それならば、わたくしは、虞でございます」
 項羽は、杯を持つ手を動かそうとして、止めた。燭台の灯火が、夜闇から、ぽっと香澄の白面をすくい出し。そのあたたかな笑みを、じっと見つめる。 
「俺をからかわないでくれ、気恥ずかしくなる。本当の名があろう。それを名乗るがよい」
 顔を赤らめ、それを夜闇に隠し。項羽は照れ隠しに香澄の注いだ酒を一気に飲み干し。またつがせる。
 酒をつぎ終え、香澄はくすりと笑った。まるで気の小さい弟をからかう姉のように。だが、その眼差しは母親のようにあたたかであった。
「いいえ」
 と、首を横に振る。なぜ、と項羽が問おうとしたが。
「その恋心の前に、本当の名など何になりましょう。あなたさまがわたくしを虞と呼ばれるのならば、わたくしは虞でございます。どうか、ご遠慮なく虞とお呼びくださいまし」
 この言葉に項羽はいたく感激し、いまにも泣き出さんがばかりに、
「そうか……」
 と、ぐっと言葉を飲み込み。酒をあおいだ。それから、はっとするように。
「そういえば、そなたあの乱戦の中で剣を舞わせながらうたを詠っていたであろう。それを、もう一度ここでしてくれまいか」
 と言った。
「ここで、でございますか」
「そうだ。あの剣で、剣舞も見せてほしい。虞よ、このとおりだ」
 と頭まで下げる。
「でも、よろしいのでしょうか」
 虞こと、香澄はやや戸惑いを見せた様子だった。仮にも、項羽は楚の王である。それが成り行きで項羽とこのひとときをともにして、あまつさえ真剣でもって剣舞をするなど。もし香澄が何らかの危害をくわえようとすれば、造作もなさそうなのに。
「心配せずとも、今宵は鴻門(こうもん)の会ではない」
 戸惑う香澄をなだめるように、項羽は優しく笑った。鴻門とは、かつて酒宴での余興の剣舞をもって劉邦暗殺を謀った、後の世にその逸話語り継がれる鴻門の会に由来する。要するに、はかりごとなど度外視している、ということだった。そこまで、項羽は会って間もない香澄を信用しきっていた。
「されば」
 と香澄が言うと、項羽は侍女に命じてかの七星剣を持ってこさせた。剣身に紫の珠が北斗七星の配列でうめこまれている。項羽は目を瞠って剣を見た。
 剣のつくりもさることながら、剣身にうめこまれた北斗七星。灯火ほのかな奥の間で見れば、北斗七星がまさに煌いて(きらめいて)見え。知らず知らずのうちに、宇宙に吸い込まれるような錯覚さえ覚え。
「素晴らしい」
 と剣をたたえた。
「もったいないお言葉でございます」
 七星剣を手に、香澄は一礼し。ゆるりと身をまわせば、袖はそよ風に乗ったかのようにひらめいて。北斗七星は輝き、夜闇の中、踊りだす。

 四方在喊声廻響
 剣飄舞
 北斗血風閃亮
 這是七星剣
 但是七星不眺望我
 七星求君
 七星求君
 
 ……

 灯火ほのかなほの暗い奥の間で、香澄の歌声がかろやかに、優しく響いて流れ。その流れに乗るように、北斗も舞った。
 項羽は恍惚とそれを眺めていた。その顔は、虞に恋した十五の少年に戻っていた。
 それを見つめる瞳。
 いつの間にか、蛾が一匹奥の間に紛れ込み。香澄と項羽のそばでぱたぱたと羽ばたいている。
 気付いた侍女は追い払いたかったが、今虞が項羽に剣舞を披露している最中に下手に動くことは出来ず、どうかどこぞへ飛び去ってほしいと祈るより他なかった。
 やがて剣舞が終わり、
「お粗末さまでした」
 と香澄がうやうやしく一礼をするときに、侍女の祈り通じたか、どこぞへと飛び去って。蛾は、外に出ると大空を、満月を目指し懸命に羽をはばたかせる。
 その満月を背に、蛾を待つ大鳥が一羽。いやそれは大鳥ではなく、翼を持った人だった。これなん華山三傑のひとり、ヤクシャであった。
 ヤクシャは蛾を見ると急降下し、その羽をつまむと触覚を額に押し付ける。すると、脳裏に蛾が見てきた景色が浮かび上がった。
「……」
 じっと目を閉じ脳裏に浮かぶものを眺めていたが。
「首尾は上々」
 というと蛾を解き放して、自身は西の空目指して飛んでゆく。飛んでゆきながら、夜空の北斗七星をじっと眺め、北斗とともに輝く輔星も目を凝らして眺めた。
「死んでいるのに、見える。ふん、良く出来たものだ」

遠征・2

 ヤクシャが夜空を羽ばたいて華山を目指しているころ。趙高はかの洞窟にこもり、満面に汗をしたたらせて、あえいでいた。
 洞窟の中には、広大な空洞があり、その中央に拳大の水晶球がまるで皇帝のように台座に鎮座して、飾られていた。これこそが、反魂玉であった。反魂玉は壁際の燭台の灯火すら飲み込むほどの光りを妖しく放ち、周囲を照らす。空洞は人の手によって床は平らにされ、空洞に並び立つ石柱もまた研磨されて反魂玉の光をうけ鈍い光を放って。洞窟の中にありながら、さながら宮殿の様相を呈していた。
 中央の反魂玉にひざまずくようにかがんで、汗を床に落としながら、息をあえがせている。
(しくじった)
 ふと顔を上げると、首のない屍魔が仁王立ちしていたのが、力なくどさりと崩れ落ち。ぴくりとも動かない。 
 すると、配下の者が息も絶え絶えに、
「大変でございます、屍魔どもが……」
 奥から不気味な叫び声がする。この洞窟にはここのほかに数箇所の広大な空洞がある、その別の空洞にかくまっている屍魔たちの叫び声であった。あのアスラの咆哮も聞こえる。
「屍魔どもが暴れておりまする」
 趙高は忌々しそうに舌打ちし、
「邪魔をするな」
 と一喝して配下の者を追い出し、汗をぬぐい、反魂玉に向かってなにやらつぶやきはじめた。それは『活死自在経』に書かれた経典を読経しているのであった。
 最初大月氏の言葉で書かれたものを、艱難辛苦の末に漢語に訳し、研鑽を重ねようやく死人をよみがえらせる術を体得したはずであったが。あにはからんや、所詮は人の身の趙高、三傑をつくり上げそれにまた一傑をくわえて四天王にしようとした矢先、焦りから不完全な屍魔をつくり上げてしまった。
 刑天とは、中国の神話上の帝王、黄帝(こうてい)と争うも敗れて、頭を切り落とされて埋葬されたのが甦って、乳首を目に、へそを口にし、盾と大きい斧を振り回し、黄帝に復讐をしたという神話上の鬼神である。
 経によってその刑天をつくったつもりが、どこでどうしくじったのか、完成にいたらず、屍にかえってしまった。
 また奥から叫び声が聞こえた。アスラのものだ。叫び声ののちに、何かが潰れる鈍い音も聞こえると、アスラが屍魔たちを食い殺している、狂気の叫びが轟いた。
 趙高は読経をやめ、目を硬く閉じて、満身をひどく震わせた。
「我、誤てり。ああ、夢よ再びの思いにとらわれ、いかんともしがたい駄物をつくってしまった」
 そればかりか、反魂玉は不気味な共鳴音を響かせて屍魔たちを狂わせて、統制を乱し、共食いをさせている。
 刑天が出来上がれば、華山をくだり、屍魔の軍勢をもって地上を支配するはずであった。趙高は己の愚をさとった。そして学んだ。覇業に焦りは禁物であることを。迅速と焦ることは、似て非なるものであるということを。
「龍が淵に潜むは何のため」
 ぽそっと、つぶやいた。
「我よ龍となれ、宦官となって人ならぬ身となりしも、龍と生まれ変わって、天下に覇を唱えるのだ」
 去勢され子孫を残せない宦官は、人として扱われなかった。その屈辱感を、趙高はいやというほど味わってきた。その屈辱感を糧にして、己の中に想像を絶する魔物を育て上げた。だがあろうことか、己の中の魔物にもてあそばれてしまったのだ。
 屈辱のうえにまた屈辱が上塗りされて、趙高は身を引き裂かれそうな思いに駆られたが。
「会稽の恥、臥薪嘗胆」
 恥を忍び、再起をかけて耐える。と、いにしえの呉越の戦いから起こった言葉を何度も繰り返し、反魂玉に向かって吐き出していた。
 反魂玉は妖しい光をはなち、じっと趙高を見下していた。
 それからまた数日。趙高は今度こそ完全な刑天をつくりあげようと、必死の思いで反魂玉に向かい読経しはじめる。
「円覆(えんぷ)に昇りし魂、方載(ほうざい)に舞い降りてその身に入る。これ屍魔となりて、再び生ぜん。これ即ち活ける死人ならん。この法活ける死人また死せる死人に還さんことも可なりて。活死ともに自在になさん、即ちこれ活死自在なり。……」
 円覆とは天を指し、方載は大地を指す言葉で。古代中国の世界観では、大地は四角の平面、それを球面の天が覆うと考えられていた。
 趙高は丹田に気を溜めて、小さいながらも声は太くよどみなくしぼり出され。読経の声が空洞に響き、それに共鳴して周囲が音もなく震えているようであった。それは一度天に昇った魂が、再び地上に舞い降りているかのようであった。いや事実魂を天より呼び戻し、その独創的な肉体に埋め込もうとしているのだ。
 別の空洞にかくまっている屍魔どもは、今は経典の法力が効いてか静かにたたずんでいた。あのアスラでさえ、主に忠実な犬のように。
 刑天となる首なしの屍は、反魂玉の光を受けて、静かに眠っているようだった。
 それを完全な刑天となすため、まさに趙高は血を吐く思いであった。それを反魂玉に反射させて、首なしの屍にぶつける。
 また空洞の入り口には屈強の兵士がひかえ、趙高の儀式がおごそかにおこなわれるよう護衛につとめていた。彼らは秦が滅んでのちも趙高につき従う者たちであった。彼らもまた、再び秦の天下を蘇らせようと趙高とともに魔道に陥ってしまった者だった。
 そんなときに、ヤクシャは経に導かれるようにして戻って来て。兵士に、香澄の項羽に近づくことを述べた。もっとも、経典の法力が衰えたときは、ヤクシャも支離滅裂になって、いたるところでただの屍魔として殺生をするわ腹がはち切れんばかりにたらふく食うわと、それは大変な目に遭ってきた。
 それでもどうにか役目を果たし、己の方の首尾は上々ではあった。
 その役目は、香澄の監視であり、香澄が項羽に近づけることであった。水朝優と麻離夷は、香澄を項羽のもとにつれてゆくための、道具であった。ふたりはこのごろ秦復興のために屍魔を用いることを快く思っていないようであるし、密かに華山を逃げようとたくらんでいたのは、承知のことであった。
 また香澄がふたりを信用しているところに、つけ込んだのであった。もっとも、よもや香澄が項羽の初恋の少女と瓜二つであったというのは、想定外の出来事であったが……。そのおかげで首尾は上々なので、これはこれでもうけものであった。
 ちなみに趙高は、麻離夷の笛よりも、より強い効き目の笛をヤクシャに託し、この役目につかせ。ヤクシャもその期待に応えた
 が、しかし、刑天が失敗に終わりふたたびつくりなおしている、と聞いて、
「いまだ道は遠し」
 と嘆息する。
 華山は、霧と静寂につつまれて。じっと静かに、流れる霧と時間の中に身を置くのであった。
 さて、彭城にて手痛い敗北を喫した劉邦は自らは項羽に当たる一方で、韓信に軍勢をあずけ、鬼のいぬ間の洗濯とばかりに諸国を平定させ、勢力の拡大を図り、かつ項羽を挟み撃ちにする作戦に出た。無論、源龍らも韓信の軍勢の中にあった。
 広大な大地には、諸侯が割拠し、それぞれ国を建て王となっている。それを降すのが、大将軍韓信の任務であったが。韓信が将として最も輝いていたのは、まさにこの時であった。
 まず魏国を降し、次に代国を降して。続く趙国との戦いでは、世に名高い「背水の陣」をもってこれを降し、二十万と号した趙国の軍勢を小勢で打ち破った。燕という国は、韓信のその飛ぶ鳥を落とす勢いに恐れをなし、また謀略もあって戦わずして降ったほどだ。
 戦場を駆け巡るにともない、季節は流れてゆく。
 源龍は韓信の戦上手に舌を巻き、勝利を祝う一方で。誰かの家来として生きるより、剣士として、江湖を渡り歩く方が性に合っている。というか、また別に天命があるような気がしてきて。
 それは、兵卒として韓信のもとで働いたからわかったことだった。
「項羽は、香澄は、今どうしているだろう」
 夜空の北斗七星を眺めて、ぽそっとつぶやくときもあった。あの、謎の少女は、何を思ったか項羽と一緒になった。
 項羽は、彭城を奪還するとともに愛妾を得た。ということが、耳に入った。それが香澄であることは、すぐにわかった。
 一体項羽に近づいて、どうするつもりなのだろうか。あれは、水朝優と麻離夷の話によれば屍魔だというではないか。項羽は知らずに屍魔として蘇った少女を、愛妾にしたのか。
「くだらん」
 源龍は迷いを掻き消すように頭を振った。屍魔だのなんだの、わけがわからず。まともに取り合わなかった。だがあの時、確かに動く腐乱死体を見た。自分の理解を超えたことで、どう受け止めていいのかわからないし。源龍としても、やりたいことがあって。
 己の生き方を模索している最中であった。
「俺はどうすればいいんだ?」
 と悩む日々が続いた。志と屍魔が、ごっちゃになって頭の中で渦巻いているのは、如何ともしがたかった。思えば、韓信のもとで働いていたのは、それらを忘れるためでもあったような気がする。だが韓信の将としての才能著しく、源龍の出る幕などなく。結局源龍は韓信に仕える有能な配下のひとりにすぎなくて。
 確かに韓信には恩があるし、頭が上がらない。しかし、そこから飛び出したい己があるのもまた確かで。それは理屈を越えたことだった。
 戦のないとき、源龍は蒐弐十を走らせて、得体の知れない苛立ちを紛らわすのであった。その後を追う、赤鹿毛。那二零を駆る羅彩女であった。
 那二零はほんとうに優れた馬で、悲しいかな蒐弐十でどんなに飛ばしてもすぐに追いつかれてしまう。それはあたかも、ずっと後世の東夷の小島で生まれたMR2(SW20)とNSX(NA2)という汽油車(自動車)のようだった……。

遠征・3

 修武という地がある。任務を一通り終えた韓信はその地にとどまり、劉邦からの次の指令を待っていた。そうなると、剣のみを頼みとする源龍はどうしても手持ち無沙汰となってしまって、暇つぶしに馬を責めるより他はなかった。
 そこへ、
「あっはははは。遅い遅い」
 と愛馬の俊足を誇る羅彩女に並ばれて笑われる始末。
「……」
 源龍は口元を硬く引き締め、羅彩女の笑い声を聞き流していた。朝から駆け通しで、蒐弐十も息が上がっている。那二零は、まだ余裕がありそうだが、それでも速度の低下は否めない。
 夕陽が赤く染まって、遠くにかすむ山々に沈もうとしている。それを背にして自分の幕舎に帰ろうとする。
 陣中では、貴志と麻離夷がともに笛を吹き。それを韓信軍の兵たちが囲んで、じっと聞き入り、己の心を慰めていた。麻離夷は自分の目と髪の色のことを考えて、病で醜くなってしまったから、と外では常に頭巾を深くかぶり、人に顔を見せないようにしていた。
 貴志は韓信の遠征に付き従ったものの、積極的な戦いはせずに防戦一方、生きながらえることに専念していた。それは彭城でのことが心に強く焼きついているからか、それとも他に理由があってか。
 水朝優はというと、これも遠征に付き従ったが、軍馬の面倒を見る馬飼いとしてで。戦に出ることはなかった。
 音楽が、また奏でることが好きなのだろう、麻離夷は暇なときは、笛をよく吹いていた。その笛の音に惹かれるように、貴志は笛の音に聞き入っていたのが、やがて笛の吹き方を教わり。ともに笛を奏ではじめたのだった。またその笛の音に惹かれるように、兵らがあつまって聞くようになった。
 奏でる曲は昔から伝わるものから即興のものと幅広く、また音律も時に低くそよ風がささやくように、時に天高くまで駆け上るように力強く、それらが一体となって流れのように、聞く者の血の流れまでが音律に合わせて上下するかのようだったし。
 ふたつの音色は、まるで互いに手を取り合って踊っているようにも思えた。
(巧いもんだなあ)
 韓信も遠くから聞いて、腕を組み自分のあごをいじりながら、貴志と麻離夷の奏でる笛の音を聞き入ることがあった。丁度今もそうで、聞いているうちに、自分の血の流れまでが笛の音にあわせて踊りだしそうな気にさせられた。ともに手を取って踊ろう、と貴志と麻離夷が手を差し伸べているようで。笛の音の、根源となるものの、奥底にあるもの。
 それを思うと、韓信はやや顔を赤らめて、
「いやいや、俺には似合わないなあ」
 と、そっと笛の音からのがれてゆく。
 源龍と羅彩女が戻ってきたのは、そのときだった。
「またやってるな」
 笛の音を聞き、源龍はぽそっとつぶやいた。奏でられる調べを、上手だな、と認めながらもあまり関心なさそうに、蒐弐十を馬舎へ引いてゆく。それに並ぶ羅彩女は、那二零を引きながらも知らずに心を笛の音に乗せていて。ときおり指で太ももをとんとんと叩いて、調べに合わせていた。その顔は、かつて盗賊をしていたとは思われぬように、穏やかであったことに、源龍はいささか不思議な思いに駆られるのであった。
「よお」
 源龍と蒐弐十、羅彩女と那二零を迎えた馬飼いの水朝優は、ふたりから二頭をあずかり馬舎の中へ導いてゆく。
 その顔は無表情で、何を考えているのか察しがつかなかった。
 香澄が水朝優と麻離夷から離れて、項羽と一緒になって、どのくらいの季節が流れたか。源龍にくっついて、韓信軍の中に身を置きながら。ふたりはこの身をどうするべきかと悩んでいるようだ。
「楚の歌をたのむ」
 笛の音を聞いていた誰かが、そんなことを言った。
 笛の音を聞く兵から、あれをたのむこれをたのむ、とよく言われる。広大な大陸に様々な国が割拠しているとはいえ、戦火激しく渦巻く今の時代。人民は戦火を逃れ、いや戦火に追い立てられて、流民となって、濁流に飲まれたように大陸をさまよい、身を根付かせるべき土地を求めあるくもの数知れず。
 また韓信軍の中にも、様々な国の出身者がいる。戦乱で流民となり、食を求めて身を投じたもののは多かった。
 この国の軍だからと、その国の人民でばかり構成されているわけではなかった。韓信軍、ひいては劉邦の漢軍は、もとは楚の軍隊だったから、楚人が多かった。いわば楚漢戦争は楚人が天下を二分する戦争でもあった。楚の秦への激しい憎悪、それに項羽の持つ激しさが、そんな事態を生み出したといってもよかった。
 それに諸国・諸民族の兵も加わって、大将となるものはよほどの人徳と滞りない食を兵たちに向けてやらなければ、すぐに見限られて、ともすれば裏切られてしまうのだ。それがいにしえの時代の軍隊だった。大将が心を砕くのはいかに兵を食わせるかであり、また兵、ひいては人民として、英雄とは自分たちを食わせてくれるもののことだった。
 そんな現実的で厳しい条件が、中華の人々の心に、異郷の者たちが想像もしえないような激越な部分をもたらせたようで。それだけに、士は己を知るもののために死す、という、恩に報いるに、己の命をもって報いんとする、必要とあらば自ら命を差し出すような、理屈を越えた心情を持つものの存在も珍しくなかった。またそこから、弱きを助け強きをくじく、という「侠」と呼ばれる思想を生み。またかつて羅彩女がしていたように、国に頼らず「幇」という組織をつくるなどして、江湖の人民が力を合わせて生きてゆく、という生き方をするものもたくさんあった。
 ともあれ、それでもやはり人の身である、郷愁の念を抱いて各々の故郷の歌を恋しく思い、貴志と麻離夷に故郷の歌を奏でさせるのは、人の人であるという故にであったろう。
 さすがにこれには、源龍までが、馬を預けて自分の幕舎へ向かう途中、笛の音が楚の歌を奏でるのを耳にし、立ち止まった。
 一度は離れた韓信であったが、また笛の音が気になったか、遠くから笛の音に耳を傾けていた。周囲の兵たちが、じっと聞いていたと思ったら、楚生まれのものは感極まったように、笛の音に合わせて楚の歌をうたった。歌は様々な差異を越えて、人の心を打つ。楚人の兵以外にも、その郷愁の念に響くものがあって、口をそろえて皆が楚の歌をうたった。
 それをを見て韓信は、
「ふうむ、やはり歌は人の心の中で生きているのだなあ」
 と、しみじみとつぶやいていた。

遠征・4

 韓信が別働隊を率いて諸国を平定する一方で、劉邦は項羽に苦戦を強いられ、散々に打ち負かされ追い立てられ、命の危ういことも一度や二度ではなく。劉邦の心には、項羽への恐れが粘り強く根付いてしまうほどで。
 敗戦に敗戦を重ねながら、ついには韓信のいる修武まで逃げ出す始末だった。そのときは深夜だったが、
「韓信、韓信」
 とどなりながら韓信の幕舎まで迫ろうとしていた。王がそうなのだから、配下の兵の気の荒れようも察して余りあって。
 劉邦軍の騒ぎに驚き、何事かと慌てて起き出す者も少なくなかった。源龍もそうで、すわっと股夫剣を押っ取り、韓信の幕舎まで駆けつければ。劉邦が配下を引き連れ幕舎に入ろうとしているのを目にした。
(こいつが、漢王の劉邦か)
 鼻が高く、立派な髭を生やして、威厳があり。なるほど王に相応しい風貌である。が、傍若無人ともいえる立ち居振る舞いは、江湖の侠客そのままでった。
 深夜に押しかけ、劉邦は、王が臣に命じるというよりも、親分が子分に言うことを聞かせるかのように、寝ていた韓信を叩き起こし、
「斉の国はどうした、斉は。のんびりしてないで、早く征かんか」
 とどやしつけるのであった。
 気になって後ろからそっと様子をうかがっていた源龍は、
(よく言うぜ。次の命を待てとか言っていたくせに)
 と呆れていた。もしこれを自分にされたら、まず股夫剣が答えるだろう。が、さすが韓信は慌てず。
「左様にいたします」
 と落ち着いたものだった。
 すると、劉邦はにこりと笑って、
「そうか、そうか、お前が行けば大丈夫だな」
 一転して、がはは、と大笑いしながら言うのであった。韓信も同じように笑っている。このやりとりに、源龍はきょとんとする一方で。さっきまで散々怒鳴った相手に、すぐに笑いかけられる劉邦の人となりに心を奪われそうな思いに駆られそうだった。
 劉邦は自然体だった。人間としての好き嫌いはあるが、それらをひっくるめてすべてを受け入れる度量を持っていた。それはいざというときに融通を利かせて、窮地という窮地を逃れる要因となっていた。要するに、今日何が起ころうとも、明日は明日の風が吹く、といういかにも侠客らしいものの考えの持ち主だった。
 そんな度量の劉邦のもとに、様々な人々が吸い込まれるようにして寄ってくるのも、頷ける話だった。
 韓信もそのひとりで、そのおかげで浪人から大将軍という立身出世を遂げることが出来。劉邦に強く恩を感じていた。
「起こして悪かったな。じゃ頼むぞ」
 がはは、と笑いながら機嫌よく幕舎を出てゆく。このあっけらかんとした様子は、韓信に対する信頼から来たものだった。あいつがいけば、もう大丈夫と。
 そこまで信頼されれば、なるほど己の力量を試したいと常に願っていた韓信は嬉しいだろうし。恩の返し甲斐もあるというものだ。とか考えていて、
(あっ)
 と思ったことがあった。韓信が源龍を望むのも、ひとえに劉邦の恩返しに役立てたいというのがあってのことだったということか。源龍は韓信に恩があり、韓信は劉邦に恩がある。己の生き方を模索していた源龍だが、いまここに、ひとつの生き方を見つけた。
 それは報恩の生き方だった。
 私心は捨てきれないが、すくなくとも恩はまっとうしよう。自分のことはそれからだ、と自分もで不思議に思うくらい、韓信への報恩の気持ちが今まで以上に芽生えた。どうも劉邦と韓信のやりとりをうかがううちに、知らずに触発されたようだった。
 翌朝、韓信軍は斉平定に向けて進軍を開始した。
 この斉を平定できれば、項羽包囲網は出来上がる。
 項羽は劉邦をひたすら追いかけ、その間に謀略により老軍師范増と仲違いし、ついに范増は項羽のもとを去ってしまった。
 范増は故郷へ帰る途中、病で亡くなった。亡くなる直前。天下は漢のものになるだろう、と予言した。
「ともに謀をなすには、項羽はあまりにも子供じみたやつだった」
 とも歎きながら……。
 これにより楚軍は軍師なしの状態となり、劉邦のとの戦いに勝っても、とどめをさせないという状況はついに覆ることはなかった。劉邦とてただ逃げ回っていたわけではなく、そこには彼を慕う配下のものたちの並々ならぬ尽力があった。それはこういう苦境のときにより光った。
 劉邦は以前と同じように項羽をひきつけ、その間隙を突き韓信が斉を平定する。楚の強さは、すなわち項羽の強さだった。項羽なきところでは、ただ韓信の将としての独壇場だった。
 だが項羽とてそれを指をくわえて眺めていたわけではない。信頼する猛将、龍且を大将として、打倒韓信の軍勢を進発させたのであった。
 その数、韓信軍の二倍の、二十万の大軍であった。
 斉は韓信軍遠征路の一番東方、終着点にあたり。征服されてしまえば、斉の南にある楚は包囲されて不利に陥る。
 斉こそ韓信と項羽にとっての天王山であり、ここでの勝敗が今後を大きく左右する。無論龍且が斉に入る前から、戦いは始まっている。斉は韓信軍を迎え撃ち、強く抵抗をしめした。ことに項羽の援護を受けているので、なおさら強気で阻んでくる。
 さすがにこれには、韓信も苦戦を強いられ前進の速度も鈍くなったようだが。源龍はなにくそと、蒐弐十とともに戦場を駆け巡り、股夫剣を振るった。羅彩女は、やはり向いているのか好きなのか、軟鞭を得物としてぶんぶん振り回す。那二零も一緒なのは言うまでもない。
 ここ斉での勝敗が重要であると、源龍、羅彩女ともにおのずと気合も入る。
 女の身の羅彩女だが、ただ飯食らいはよくないということと、源龍に負けまいとする負けん気から戦場にその身を投げ入れることに、躊躇はなかった。
 源龍も羅彩女に負けてられないと、彼女がひとつ手柄を立てれば、源龍はふたつ立て。となれば羅彩女は、追いつけ追い越せと、みっつ立て……。という風に、互いを意識しながら切磋琢磨しあって、韓信軍の前進に少なからず貢献していた。その奮戦振りは味方も斉軍の兵たちにも、強烈に刻み込まれ。敵味方から、愛馬の色にちなんで、赤黒鴛鴦(せっこくえんおう)というあだ名が、ふたりにいつの間にかつけられていた。鴛鴦とはおしどりのことだ。
「別に組んでいるわけでも、夫婦でもないのに」
 と、源龍と羅彩女はこのあだ名に密かに苦笑していた。しかし、源龍と蒐弐十あるところ、羅彩女と那二零もあり、といつもそんな具合なので、仕方のないことであった。
 さて貴志である。
 ふたりが活躍するその陰で、積極的な戦いを避けて、生き残ることだけに専念していたため、影は非常に薄かった。
 たまの平時には、笛を吹いて過ごし。女々しいやつと陰口まで叩かれていた。
「俺は、剣を振るうよりも、笛を吹いて過ごしたい」
 と最近口癖のようにつぶやくことがあった。
 修武の地にとどまる麻離夷を思い浮かべ、ひとりで笛を吹くとも、麻離夷とともに吹いている気持ちになって、ひとり寂しい気持ちを抑えて奏でていた。夜空の向こうに、麻離夷も同じような気持ちで、笛を吹き奏でていると思うと、胸が打たれるのであった。
 そう、貴志と麻離夷だが、知らないうちに、そうして互いを想う仲になっていた。彭城騒乱の折りに、手を握ったことが、きっかけになったようだ。貴志は誤って麻離夷を傷つけてしまったこともある。それから、剣を握ることを気持ちが嫌がっているのを、どうしても抑え切れなかった。

遠征・5

 水朝優は、出立の直前に馬飼いの仕事を辞し、修武の地であばら家をもとめてひっそりと暮らしている。麻離夷は、戦場から戦場を渡り歩く軍隊の中で生活することに、疲れを感じ。修武に定住して貴志の帰りを待っている。ほんとうなら韓信軍に紛れ込んで移動していた方がよさそうなのだが、緊張の続く日々は笛を奏でるくらいでは補いきれず。もう限界に達しようとしていた。
 そこで水朝優はやむなく、貴志が帰ってくるまでその麻離夷の面倒を見ているのだ。
 ふたりの仲を知らぬ水朝優ではない、間に入って麻離夷を掠め取ることはしなかった。その辺に関しては、貴志も信頼しているので、不安はなかった。
 だが、屍魔や香澄のことを忘れることはできなかった。もし屍魔がふたりに襲い掛かったら、どうするのだろう。
 自分も兵を辞めて修武の地にとどまりたかったが、兵力を求める韓信軍はそれを許さなかった。馬飼いは変わりはいくらでもいるが、武器を手に戦う兵は、天王山を臨む今はとても貴重なものだ。
 こっそり抜け出そうとも考えたが、監視の目も厳しく脱走もままならず。結局戦場を渡り歩くより他はなかった。
 一日が一年十年に感じるほど、貴志は寂しい思いを抱かされてしまった。が、自分にそういう感情があることに気付いて驚きもしていた。それは軍中にあって、麻離夷から離れたから、起こった事だった。
「会いたい」
 ぽそっとつぶやいた。
 戦場を前にして。
 で、振るう剣が赤く染まってゆくたびに、あの時、赤く染まった麻離夷の手を思い出してしまうのであった。
 斉攻めは騎乗して戦場を駆け巡る野戦もあったが、城攻めも多かった。この城攻めの時ばかりは、赤黒鴛鴦も騎馬を降り、徒歩立ちで城壁によりかかり、よじ登ったりもした。
 貴志も城壁によじ登ると、城壁から石を落としたり矢を射掛ける左右の敵兵を斬るよりも、やはり身の安全を第一にして、味方の陰に隠れたりしていた。それを源龍が目ざとく見つけた。
「おい!」
 怒鳴ると、敵を斬り伏せながら、
「生き残りたきゃこそこそするな!」
 と貴志にがなった。
 ちぇっと忌々しそうに舌打ちする貴志であったが、源龍はふんと鼻を鳴らし。
「言ったろう、無用の長物なんざ切り取って宦官になってしまえ、てな。そんなもんで、あの女が悦ぶと思っているのか」
 などとのたまう。
 一瞬恥じらいから顔を真っ赤にしたが、源龍の言いたいことをさとった貴志は、はっとした。麻離夷を想ううちに、知らず知らず臆病心に呑まれていたようで。このままいけば、貴志の一から十まですべてが臆病心の塊りとなるところであった。
 戦場では勇敢だけでもだめだが、臆病だけでも生き残れない。その場その場で、臨機応変に勇敢さと臆病さを駆使して戦わねばならない。密偵として生きてきた貴志に比べ、源龍は兵士として戦場を駆け巡ることにおいては、一日の長がある。それだけに、生き残る術も心得たものだった。
 源龍もまた、貴志と麻離夷のことはわかっていた。
 ふん、と貴志は鼻を鳴らし、敵兵をひとり斬り伏せた。
「きんたまのあるところを、見せてやるさ!」
 と源龍とともに剣を繰り出し、次々と敵兵を屠ってゆく。そこへ羅彩女が軟鞭を振り回して合流し、勢いを増し、ついには城内へと駆け下らんかと階段のところまでやってきた。この階段を下り、内より門を開いて外の味方をなだれ込ませれば、城を獲れる。
 しかしそうは問屋が卸さずと、城内から次々と、敵兵が城壁に駆け上がってこようとする。戦鼓の音も鬨の声も激しく、双方激しくぶつかり合い。血の雨が降った。
「上は任せたぞ!」
 階段を駆け下ろうとして、抵抗に遭いなかなかかなわぬと見て取った貴志は、敵兵が斬られて城壁より内へと落ちようとするところを目ざとく見つけた。と、だっと駆けて、斬られた敵兵に続いて城内へと飛び降りた。
「何考えてやがる」
 かえって仇となったか、と源龍は焦った。羅彩女は軟鞭を振りながら顔を青くした。城壁は高く、飛び降りなどすれば全身を地に打ちつけ、骨が粉々に砕けてしまいそうだった。が、貴志にとっては計算してのことで、落ちる最中に上手く落下する敵兵のうえに足を乗せ、一旦体勢を整えると、地に打ちつけられる直前に、さっと身を弾ませて着地した。その後ろでどんという鈍い音とともに、何かが砕け散った音もした。
「やるもんだ」
 貴志に続けと、源龍と羅彩女も敵をひとり仕留めると。同じようなやり方で、城内へと飛び降りた。
 貴志は取り囲まれてもなおひるまず、剣を振るう。そこへ源龍と羅彩女の助っ人が来て、勢いは増す。城壁からは、味方の喚声が、敵方の恨めしげな叫びが響いた。
 その声に後押しされるように、三人は包囲網を切り開きながら城門に迫り。ついには、内より八の字に門を開け放った。
「いけ!」
 ここぞとばかりに、韓信の号令一下、韓信軍の兵たちは一挙に城内へなだれ込み。ここに勝敗は決して、城は陥落。
 後の論功行賞で、城門開扉の武功第一として、貴志は韓信より金銀財宝や駿馬といった恩賞を受け。金銀財宝は麻離夷に送り届けたのであった。
 最初の遠征同様、戦いは連戦連勝であった。しかし、ついに龍且軍が斉に入ったとの報告が飛びこんできたとき、韓信軍に緊張が一気に駆け抜けた。
 龍且は、あの項羽が信頼を置くほどの、万夫不当の猛将。こればかりは一筋縄ではいくまい、と固唾を飲まずにはいられなかった。
 が、韓信はいつも通り余裕綽々であった。
 斉の城もあらかた落とし、最後は龍且との決戦。予定通りだ、という感じである。
 源龍は、血の沸き立つのを禁じえなかった。当分は韓信への恩返しに専念し、項羽と香澄のことはひとまずお預けにしていたが、もし龍且を討ち取れば報恩のけじめもつくし。それから江湖へ下って……、ということを考えていた。
 項羽と香澄のことは、彭城騒乱のときのように、どさくさに紛れ込めばなんとかなるだろう。それを思えば、無理に韓信軍に身を投じずともよかったのだった。我ながら、なんという頭の鈍さであろうかと、苦笑したものだ。
 まあそれはともかくとして、龍且との決戦まで、源龍は落ち着かなかった。貴志といえば前の城攻めで自信をつけ、また駿馬に、漢軍に忍び込んでいたときの偽名である回七と名前をつけて、試乗にふけっていた。試乗にふけるのはともかく、回七という偽名を馬につけるとは。どうもその偽名に愛着をもっていたようだった。
 遠征をする中で、少ない平時の一日。遠征の疲れを取るため、韓信は軍を占領した城にて駐屯させた。
 その間にも、早馬が続々と龍且の動きを報じてくる。そのたびに、城内は騒然として、色めき立ってきて。とても疲れを取るような雰囲気ではなかった。
 むしろ龍且の武勇を警戒し、恐れているようでもあった。

遠征・6

 龍且は項羽より託された二十万の軍勢を率い、臨沂(りんぎ)の地まで進軍した。
 斉に入ると、韓信は手強い、無理をせずに持久戦でいこう、と進言されたが。
 龍且は呵呵大笑し。
「案ずるには及ばん。俺は韓信のやつを知っているが、あれは、臆病者だ。昔ごろつきに脅されて、股をくぐったのだ。そんなやつ、我が大刀の餌食にしてくれようわ」
 と進言策を退け、韓信なにずるものぞ、と正面からの決戦を挑んで、勇んで進んだ。
 楚の援軍、ついに来たる。の報を受け、韓信は、さていくか、と軍を進めた。
 進軍する前に、他の将らとなにやら話し合っていたようだ。が、源龍は知らない。源龍が韓信と親しかろうが、いかんせん、源龍はあくまでも一剣士にすぎないので、作戦会議には参加させてもらえない。まあ、たとえ出来たとしても、軍をまとめ指揮を執ったり、何かの策を立てたり、ということは無才に等しいので、いたところでやくたいもないのだが……。 
 ともあれ、軍中にあって源龍は、楚の猛将龍且との戦いに臨んでまるで童子のように心弾むのを抑えられなかった。
 それに引き換え、羅彩女、貴志らは今までにない緊張を禁じえなかった。相手は龍且、さて勝てるかどうか。そうでなくとも、相手はこちらの二倍の兵力。真正面からこられたら、ひとたまりもない。いかに源龍が剣を振るおうとも、どうしようもないわけで。
 それは他の兵たちも同じようで、今まで連戦連勝を重ねてきたといっても、龍且の名を耳にしただけで震えを来たし、勝敗の行方を案じるばかり。
 韓信軍は、息苦しい緊張に包まれたようだった。
 が、これとは別に韓信の命を受けて、別働隊が別行動を開始していた。
 こんどの戦い、別働隊の働き如何によって勝敗が決まる。
 一日軍を進め、夜に入って夜営し休みを取る。
 他もそうだが、貴志はなかなか眠れぬ夜を過ごしていた。
 それは、源龍もそうだった。が、わけは貴志とは違った。明日進めば龍且軍とぶつかる。さて、己は龍且を相手にどれくらいの働きが出来るのか。また、これに勝てば、韓信への恩返しへのけじめもつき、心置きなく江湖に下れる。
 と思うと、気持ちは高ぶり、血の温度があがって、身体はほてりを覚える一方で。眠れないのに無理に寝ることもない、と幕舎を出て、夜空を眺めていた。
 北斗七星の七つの星が、きらきら光る。
「……」
 ふう、と思わずため息をつく。気のせいか、左の頬が、ちりちりと痛む。
(香澄はいまごろ、何をしているのか)
 突然遭遇してしまった、屍魔の娘。宝剣、七星剣を得物にし。絶妙の剣技をもつ。それも、秦を復興させるために、秘術によってつくられたという。
 いわば、化け物だ。
 水朝優も麻離夷も、もう化け物をつくることにうんざりして、根城にしていた華山から逃げたという。
 水朝優は言った。地獄をつくりたくない、と。
「秦人もまた、人間であったか」
 そうだ、楚人も、韓人も、秦人も、匈奴も、同じ人間だ。と、今さらのようにそのことを考えた。
 が、難しいことの苦手な源龍はそれ以上のことを思い浮かべることはできなかった。孔子だの荘子だの、名前しか知らない。
 それはともかくとして、血は構わず沸き立つ。あまりにも血の沸き立つに、源龍自身どうしてよいのかわからなかった。いくらなんでも、沸き立ちすぎで、頭が変になりそうだった。
 何か落ち着ける術はないか、と思ったとき。はっと何かを思い立つと、羅彩女のいる幕舎まで来るなり、中へ呼びかけもせずに、ずかずかと入り込む。
 明日の戦で神経が昂ぶりなかなか寝付けなかった羅彩女だったが、これには驚き、飛び起きようとすれば。源龍は物言わず羅彩女に覆い被さり、力いっぱい押さえ付け、そのまま口を吸った。
 咄嗟に平手を飛ばす。
「な、なにを……」
 抗おうとすれば、ぎらりと光る源龍の目。それこそ、その名のとおり龍に睨まれたような気迫を感じて。その視線に射竦められて、身動きがとれない。
 気のせいか、源龍の体温が熱いほど感じられた。
「羅彩女、お前の身体を使わせてもらうぞ」
 訳も語らず、源龍は思うがままにその身体を貪った。
 最初抗いを見せた羅彩女であったが、次第に何もかもがとろけるようになって。それからのことは覚えておらず。
 ただ、ひどく脳乱した。

遠征・7

 翌朝、韓信軍は進発し。龍且軍と、濰水(いすい)という河を挟んで対陣した。
 空は憎たらしいほど、蒼天が広がり。絶好の戦日和。
 照りつける太陽の光を受け、源龍は蒐弐十の馬上、股夫剣を握りしめ、いまかいまかとはじまりの時を待っている。そのかたわらで、羅彩女はじっと横目で源龍を見据えていた。
 名ばかりのはずの赤黒鴛鴦は、ついに本当の鴛鴦になった。というわけではなかった。その目には、憎悪があった。
 愛しているわけでもなし、血の沸き立つを抑えるためだけに己の肉体をむさぼった男を、なんで愛せよう。
 それ以上に、手も足も出なかった己にも憎悪した。
 源龍は視線を感じ、羅彩女に一瞥をくれる。
「憎まば憎め」
 それだけを言うと、顔を背け、対岸の龍且軍に熱いまなざしを送る。
 そんな源龍に、羅彩女は長い黒髪が総毛立つほどに憎悪を増し。那二零も主の炎情を感じ取ったのか、やけに鼻息も荒い。 
 貴志は無言で回七の馬上、はじまりの時をうかがっている。
 対岸の龍且軍も、号令を待ち焦がれて韓信軍を対陣する。
 韓信も、龍且も、濰水を挟んで。獲物を狙う狩人のように、号令を下す機をうかがう。
 この時、周囲は異様な熱気と殺気にみなぎり。河は両軍の熱気により沸騰するかと思われた。
 蒼天より風が吹きおろし、旗をはためかせ。旗は命あるもののように、風を受け激しくはためく。
 河は幅広けれども浅く、馬や徒歩でも渡れそうだ。それを見て、韓信はにやりとする。
 龍且は大刀をひっさげ、相手の陣容が整うのを待っている。敵の陣容整いきらず、いまこそ絶好の機会であるというのに。血気にはやる家来たちを制し、相手の動きをまるで蟻の行列を好奇心いっぱいで眺める童子のように眺めていた。
「ふん、所詮は股夫韓信。やつは戦の仕方を知らぬと見える。なんじゃあの動きののろさは」
 と、号令を待っている家来に呵呵大笑し。相手を嘲った。
 しかし相手は常勝将軍韓信、何かの策があるやもしれませぬ、ご油断あそばされますな。と斉の士が言うが、龍且は聞かない。
「常勝? ふん、まぐれじゃろ」
 と、簡単に済ます。
 韓信は自軍の陣容が整うと、
「戦鼓を叩け。軽くな」
 と戦鼓を軽く叩かせた。
 どおん、どおん、と戦鼓の音は空(くう)に漂うさざなみのようにゆれ。いよいよか、と全軍身を引き締め出撃の号令を待った。
 対岸より戦鼓のひびきつたわるや、龍且も戦鼓を叩かせた。こちらは威勢もよく、空も揺れよと鼓の音も高らかに。
 それから銅鑼の音が、戦人たちの咆哮が加わり、嵐が来たるように激しく上下する旋律は聞く者の心をゆさぶり鼓舞する。
 それを聞いた韓信軍の兵の一部が、恐怖をきたし、恐れを口にしだした。どうも対岸より響きわたる戦鼓、銅鑼の音に怖じたようだ。
 人の感情は、あっという間に感染を広げる。そばにいた貴志はとっさにふところから笛を取り出し、全魂を込めて吹き奏でた。
 笛の音は対岸の嵐のような旋律に飲み込まれることなく、高らかに鳴り響いた。笛を吹くときは、いつも麻離夷を思い浮かべる貴志であったが、このときばかりは脳裏に香澄を思い描いていた。
 蝶のように舞いながらも、その剣技至高にして七星剣の剣風に続いて血風吹きすさぶ。
 楽譜もへったくれもなく、脳裏に閃くままに、貴志は笛を吹き奏でた。その音は烈風のように激しく、ひるむ者の臆病風を吹き飛ばし。鼓膜を突くように耳に入り込んでくる。
 突然の笛の音に驚いた源龍と羅彩女は、その笛の音によってひるむ兵が鼓舞されてゆくのを見て、我知らず感心していた。のみならず、自分たちも笛の音に鼓舞され血が沸き立ってくる。
 驚いたのは韓信もだった。
「あらら、余計な世話遣いをするやつだ」
 苦笑をもらす。
 進発の直前に作戦は伝えている。あまりにも血気にはやりすぎては支障を来たしかねないので、戦鼓を抑え目に叩かせたのだが。しかし本当に臆病風に吹かれてしまうやつもいるようなので、これはこれで効き目があるようなので、貴志の吹かせるに任せた。
 そうするうちに、笛の音は戦鼓、銅鑼の音とまじわり、大きく広がってゆき。ついには風に乗って、対岸にも聞こえた。貴志はそのことに気付いておらず、ただひたすら、ほとばしり出る己の魂を笛を経てその音色にかえていた。そうでもせねば、己が得体の知れない恐怖に飲まれてしまいそうだった。
 龍且は自軍の銅鑼、戦鼓の音を貫かんがばかりに駆け抜ける笛の音を耳にし仰天したが。
「戦は戦人で勝ち得るもの。楽人いかに心魂そそがんとも、何ぞ戦人の進むを阻めよう」
 とことさらに大笑し、嘲った。
「もうよいもうよい。小癪な蟻どもを踏み潰してしまえ」
 戦鼓、銅鑼の音一層高らかなるとともに、獣の雄叫びをあげ、ついに龍且軍は進みだし。河を渡って、韓信軍に突っ込んでくる。
「よし、いけ」
 相手の動きに合わせて、韓信も号令を下す。
 双方河に飛び込むように押し入り、戦刃を交える。源龍は勢いよく敵を股夫剣で血祭りにあげてゆくが、貴志はすぐに回七を飛ばしてそばにゆき。
「調子に乗るな。後の楽しみにとっとけ」
 と怒鳴ると、源龍はっとして。
「そうだった」
 と苦笑いをし、言われたとおり調子に乗らず凶刃をかわしながら蒐弐十を泳がせた。羅彩女は物言わず、憎悪の目を源龍に向けたまま那二零を同じように泳がせる。
 対する龍且、韓信軍の勢いにふれるにつけ、やはり弱しと安堵し。
「押せや、押せや」
 と真っ赤に染まった大刀を振りかざし突撃を命じた。これには韓信軍ひとたまりもなく、あっという間に崩れそうになった。
 龍且のその強さはやはり本物で、真っ向から真正直にぶつかって勝てる相手ではなかった。源龍はその龍且を見定めると、咄嗟にそれを討ち取らんと駆け出したくなるのだが、ぐっとこらえて距離をとった。貴志はもとより龍且など相手にしない。
 戦刃をまじえてさほど刻も経ってはいないのに、中軍にある韓信は龍且の怒涛のような勢いが自軍を飲み込もうとしているのを見て。
「引け」
 と退却の号令を下す。
 韓信軍は待ってましたとばかりに、河から這い出て後ろに引き。それを龍且軍が追った。口ほどにもない、と龍且はさらに押し寄せる中で、あの時、項羽に挑みかかった浪人を見つけた。
「あれは」
 と後を追えば、間違いなく、あの浪人であった。
「待て、いつぞやの匹夫。所詮はうぬも韓信と同じ股夫か」
 と呼ばわるも、浪人は知らぬ顔で背中を見せる。が、無論源龍がそれを聞き逃すわけもない。
(覚えていやがれ)
 と心で言い返し、韓信の号令のまま逃げてゆく。
 斉の士の面々は、今まで連戦連勝を遂げた韓信軍がこうもあっけなく引き上げてゆくことに、どうにも納得がいかず。龍且殿、これはあやしい。あまり深追いせぬがよい、と諌めるものもあった。
 しかし、
「うるさい。韓信韓信とまるで呪詛のように繰り返しおって。そんなに恐ろしいなら、もうかまわんから、うぬらは残っておれ」 
 鬱陶しいとばかりに、斉の武士たちに怒鳴りつけ。どんどんと進んでゆく。勝利を確信した龍且は手綱をゆるめず、大刀を采配代わりにかかげ。
「押せや、押せや」
 とひたすら声を張り上げ、自軍を叱咤し激しく追撃させた。源龍は龍且の怒声を聞くにつけ、血がふつふつと沸き上がるのを覚えたが、韓信の命もあり、それを抑えて他の兵とともに引く中にあっても。
 取って返し、龍且と戦いたいという気持ちは、ますます募るばかりであった。
 そのため、心に一片の乱れが生じ、それは湖面の落ち葉で起こった波紋のように広がった。ために手綱はゆるみ、蒐弐十は主の気を察してにわかに速度を落とす。
 そこへ、得たりとばかりに、敵の大薙刀が蒐弐十の馬脚を横なぎに凪いだ。
「あっ」
 蒐弐十は崩れ落ち、源龍は咄嗟に受身をとって着地したものの。脚を斬られた蒐弐十は苦しそうにうめいている。
 そこへ、ここぞとばかりに龍且軍の軍兵が襲い掛かる。源龍は股夫剣を振るいそれを追い払うも、蒐弐十はなすすべなく、黒鹿毛は朱に染まり、源龍に悲しそうな眼差しを送り。
 とどめの一刀が脳天を叩き割ると、蒐弐十は悲しげな断末魔をあげて、こと切れた。
「蒐弐十!」
 源龍は百年の知己を失ったがごとくに叫び、悲憤やるかたなく股夫剣を振り回し、敵兵という敵兵を薙ぎ払った。だがさすが二倍の兵力を要する龍且・斉連合軍は、斬っても斬ってもきりがなく、続々と源龍を蒐弐十に続かせんと迫ってくる。

続く

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遠征・8

 全身に返り血を浴びながら怒れる源龍ではあったが、周囲を見渡せば韓信軍はかまわずに遠ざかってゆく。ここで討たれてしまえば、所詮はその程度のことである。運悪く緒戦で命を落としたものなど、誰も気にも留めない。
「無念」 
 さすがに、源龍も覚悟を決めて、最後出来るかぎりの道連れをこさえようとしたときであった。遠ざかってゆく韓信軍より、一頭の赤鹿毛が取って返してきたかと思えば。
「乗りな!」
 羅彩女は怒鳴りながら愛馬から飛び降りざまに、敵の騎兵を倒しその馬を奪う。軽くなった那二零は疾風のように疾駆して、あっという間に源龍のもとまでやって来たではないか。
 羅彩女が、なぜだ。と思いつつも、うかうかしてはいられない。咄嗟に那二零に飛び乗ると、韓信軍目掛けて駆けた。それに羅彩女が続く。
「こいつは」
 源龍は疾風のように駆ける那二零の、その馬脚に驚きを隠せない。まるで自分までが風になったようで、全身で風を打ち砕いてゆきながら、周囲の景色までが吹き飛んでゆく。
 振り返って、後にようやく続く羅彩女に怒鳴った。
「お前これで徒歩立ちの俺に負けたのか!」 
「しょうがないじゃないか、あんたが相手だったからね!」
 ぱん、と張りのある声が返ってくる。なんだか変に嬉しそうにしていて、かえって当惑を覚えずにはいられなかったが。羅彩女は他の馬に乗って、改めて那二零のその駿馬ぶりに驚嘆をし、且つ源龍がそれを見事に乗りこなしていたことにも驚嘆していたなど、知る由もない。戦場のせいなのか、自分を手篭めにした男に愛想がいいなど、どういうつもりだろうと、妙に苦々しかった。
「まったく、まったく、どうしようもねえな!」
「ああ、どうしようもないね!」
「お前、俺が憎くはないのか」
「憎いさ。だけど、あたしを手篭めにした男が弱い男だったなんて、かっこつきやしないからね。那二零に乗せてやったんだ、最低でも龍且を討ち取るくらいしなきゃ、股くぐらせるよ!」
 なにを言やがる、と思いつつも、女心など知らず。ただ、無言で頷いた。
 この退却の最中、韓信は龍且軍の深く追うを見ると、
「ようし、今だ!」
 と号令すれば、配下のものはすかさずあらかじめ用意していた火矢を空高く打ち放てば。それを合図に、遠方で狼煙が上がった。それは今のこの戦場から河の上流に向かって幾筋も、空へと立ち昇った。
「なんだ?」
 龍且軍は、突然昇る狼煙の煙に不思議そうにしていたが。しばらくすると、河の上流から、何か、崩れ落ちてくるような激しい音が空を揺らした。かと思えば、どっ、と濁流が河を横切る龍且軍のわき腹を突いた。
 たまったものではないのは、河にいた兵たちである。数万とあろうかと思われた兵馬は、なす術もなく濁流に飲み込まれて、押し流されていった。
「や、や、これは」
 まさか突然の濁流があるなど知らなかった龍且は、後方で起きた異変に驚くあまり。なにが起こったのか、咄嗟に判断できなかったが。
 二十万の軍勢の多くのものは濁流に流され、またこの濁流により分断されてしまい、龍且はにわかに背水の陣に追いやられてしまう羽目になった。
 韓信の策を恐れていたものたちは、やはり、と不安が的中してしまったことに恐れをなしわれがちにと逃げようとする。
 してやったり!
 韓信は会心の笑みを浮かべると、馬首を反し。
「かかれ。龍且を討ち取れ」
 と大喝一声。反撃を命じた。
 前夜、別の一隊を上流に向かわせたのは、土嚢で河を堰き止め、溢れさせていたのだ。両軍の間に流れる河が、広くとも浅かったのはそのためで。韓信は、緒戦で負けを装い河を渡らせ、その大部分が渡河すると狼煙の合図をもって土嚢を除かせ、堰き止めで溢れてた河水を一気に下流に押し流させたのであった。
 韓信の計により、にわかに作り出された怒涛で龍且軍は完全に軍としての機能を失い。まるで土の塊が地に落ちて砕け散るように、崩れてゆく一方であった。が、そこはやはり龍且であった。
「こうなれば是非もない。韓信、うぬらを道連れにして死してやろうわ」
 決死の覚悟を決め、大刀を振るった。勢いに乗った韓信軍ではあったが、手負いの獣と化した龍且を阻むことは出来ず、大刀唸るところことごとく血煙をあげるのみであった。
「真正直にぶつかることはないぞ。矢で射殺せ」
 剛勇をもって鳴る相手に無理をせず、韓信は弩弓でもって射殺そうとした。が、それへ赤鹿毛が猛烈な勢いで突っ込んでゆく。いかん、と慌てて韓信は弩弓隊を下がらせ。赤鹿毛の武者が龍且へとぶつかってゆくのを凝視した。
 これなん羅彩女から那二零を譲られた、源龍であった。股夫剣を閃かせ、
「おおぉ!」
 空も裂けよとばかりに咆哮しながら、一陣の風となって龍且を討ち取ろうとする。赤鹿毛の馬脚も加わって、その勢い凄まじく、途中阻むものもあったがことごとく股夫剣の餌食となって。
 血風戦場を駆け抜けた。
「む、来たか匹夫。まずうぬから血祭りに上げてくれよう」
 龍且もまた声高らかに吼え、源龍を迎え撃とうとすれば。
「龍且!」
 源龍はその名を声高く叫んでよばわり、股夫剣を唸らせ渾身の力を込めてぶつけようとする。
「匹夫、我が主の身を汚すこと許さず」
 させじ、と主龍且の助太刀に馳せ参じるものもあったが、それは羅彩女の軟鞭によって顔面を打ち砕かれ、地にもんどりうって斃れた。そこへ貴志も加勢し、
「何人たりといえど、この一騎打ちの邪魔をすること許さず」
 と二騎相打つ英傑の周囲を駆け巡り、誰も近づけさせなかった。
 そうする間にも、源龍と龍且は激しく刃をまじえ。双方より烈火迸るほどの気迫は見るものの胆を縮めさせ。
 火花散る激闘数十合に及び、双方互角にしてなかなか決着はつきそうになかった。馬もまた闘うこと人と違わざるもので、いななきは剣戟の響きとまじわり空を揺るがせ、蹄地に踊るたびに黄塵が舞いあがり、剣風はそれを吹き飛ばし。あたかも、そこで竜巻が起こったかのようだった。
 韓信は、いつぞやのときと同じく、龍且と互角に渡り合う源龍に驚いたものだったが。半ば苦い思いもしていた、
(血気に逸りすぎだ。惜しいかな、あいつは戦場よりも江湖が似合う剣客だ)
 戦は総力戦である。いかにその腕優れようとも、ひとり先走るもののために統率が乱れてしまえば、元も子もない。
 江湖暮らしが長く、ひとり自由に生きすぎた。韓信は源龍をそう見た。
 幸いなのは、龍且が源龍との一騎打ちに興じて軍の統率が取れていないことだ。その隙に、韓信は雑魚どもを始末する。
 それから、源龍が龍且を討てばよし。さもなくば、矢で射殺すまで。
 勢いに乗った韓信軍は銅鑼、戦鼓の響きもけたたましく。また人工的な鉄砲水も功を奏し、龍且・斉連合軍にすれば、天上天下、すべてが韓信軍に飲み込まれてゆくようで。その軍兵にとって、韓信は軍神そのものに思えたであろう。
 龍且もすでに勝敗決することは、わかっていた。だからこそ、死に花を咲かせようとひとり鬼神となりて、全身を朱に染めながらも奮戦していた。
 源龍とて、奮戦すること、それは同じであった。剣に生きる剣士として、すべてを、今の一瞬に賭けて。
 剣を得物とし、剣によって死地に自ら挑み、死地にあって己の生命を感じて。たとえそこで待っていたのが死であろうとも、生命を燃やすこの一瞬に生きることが、彼らの望みでもあり。その望みを経ての死であるなら、それももまた望むところであった。
 激闘を繰り広げるふたりは、誰よりも光り輝いていた。戦いは互角、誰が勝つとも知れず、周囲を駆け巡る貴志と羅彩女は固唾を飲んで見守っていた。
 だが、それも永遠に続くわけもなかった。
 龍且と戦いつつも、源龍の脳裏には項羽があり、香澄があった。それらがかわるがわる閃きあって、自分を誘っている。それは暗闇の中で、一条の光りをみつけたかのようにも思われ。その光りにいざなわれるかのように、源龍の心は駆けた。
 それにともない、剣風ますます追い風に乗ってさかんになり。
 いかに龍且の大刀といえど股夫剣を受けきれず、ついには弾ける音を立てて、まっぷたつに叩き折られてしまった。
「むっ!」
「……おおっ!」
 大刀きらりと陽光を受けながら宙を飛ぶと同時に、双方大喝して腹より吼え猛り。続いて、ぶうんと股夫剣の剣風唸れば、龍且の兜を叩き割り。
 さらに顎までを割った。
「楚の龍且、源龍が討ち取った」
 股夫剣をかかげて、源龍叫べば。那二零も前脚をかかげて高らかにいななき。続いて天空裂けんがばかりに、わっ、というどよめきが響き。ついに大局がここに決した。
 これには韓信も思わず歓喜の声を上げた。
 この戦に勝利したことで、ついに斉も平定され。項羽包囲網は完成され。漢の天下統一まで、あと一歩というところまで迫ったのである。
 勝利の歓喜は湧きに湧いて、尽きることはなかった。
 韓信も色々と思うことはあったが、とりあえずそれは置いといて、その夜は皆とともにひたすら勝利の美酒に酔った。
 
scene6 遠征 了
scene7 江湖にくだる に続く

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